スリランカ民主社会主義共和国
出典:外務省HP
1.スリランカの歴史を教えてください
スリランカはかつてセイロンと呼ばれ、特産品の紅茶が有名でした。「セイロン紅茶の原産地」といった方が、頭に入りやすいかも知れません。北海道を一回り小さくしたこの島では、もともとヴェッダ族という先住民族が住んでいましたが、紀元前6世紀ごろからインドのシンハラ族の移民が始まり、紀元前483年にはシンハラ族による最初の王朝が成立しています。紀元前3世紀にはインドのアショカ王の肝いりで仏教が布教され、以後数世紀にわたって大規模な寺院の建設が行なわれ、特に東南アジアに対する仏教の伝播に大きな影響を及ぼしました。
また、島の北部の丘陵地帯では古代から大規模な貯水池がさかんに建設され、それを起点として水路網が縦横に整備されたため、それを利用した灌漑農業が盛んに行なわれて、国力は豊かだったといいます。実際、その生産力を背景に、インドやビルマまで遠征に行ったこともあるそうですから、スリランカの国力が一番大きかったのが古代だったのかもしれません。
しかし、13世紀になると、これら北部の丘陵地帯は見捨てられ、住民の海岸部への移動が始まります。同時に、この頃からスリランカは四つの王朝に分裂していき、15世紀には北部にタミル人のジャフナ王朝、南部に3分裂したシンハラ王朝が並存して、次第に弱体化していくことになります。
1517年、シナモン貿易のためにコロンボに商館を築いたポルトガルは、次第にシナモンの生産地である沿岸部を支配するようになっていきます。1658年には、シナモン貿易の独占を狙ってポルトガル勢力を一掃したオランダ東インド会社が、ポルトガルの占領地を継承します。1796年にはイギリス東インド会社がオランダ領地を引き継ぎ、6年後の1802年にはスリランカの植民地化を宣言。1815年にはスリランカ最後の砦となったキャンディー王国も併合され、イギリス領スリランカが成立します。
イギリスは、シナモン貿易の他に、コーヒーの栽培を手がけますが、1880年代、コーヒー国際市場へブラジルが参入したことによって競争力を失い、紅茶の栽培に転向します。20世紀になると、ゴムの植林も同時に行なわれるようになり、このために南インドから100万人といわれる多数のタミル人労働者がスリランカに渡って定住するようになります。このことが、後にシンハラ族とタミル族の血を血で洗う抗争を誘発する下地になっていくわけです。
さて、第一次世界大戦後、世界的に広まった民族運動の高まりを反映して、各地で独立運動が展開されるようになると、イギリスは1931年、外交と財政と治安を除く自治権の拡大を承認。新憲法による普通選挙が行なわれましたが、真の独立は第二次世界大戦後を待たなければなりませんでした。
2.スリランカ内戦は、何が原因だったですか?
第二次世界大戦後の1947年、インドの独立を承認したイギリスは、翌48年、スリランカをイギリス連邦の自治区として準独立させることを承認。セイロン共和国が建国されることになりましたが、以後、イギリス植民地位時代には表面化しなかった民族問題が、次第にこの国を引き裂いていくことになります。
スリランカには、シンハラ語を話すシンハラ人と、タミル語を話すタミル人という2つの民族が住んでいます。スリランカの人口構成を単純にいうと、人口の4分の3がシンハラ人、4分の1弱がタミル人ということになりますが、このうちシンハラ人の大部分が仏教徒、タミル人のほとんどがヒンズー教徒です。主な居住地域も南北にきれいに分かれていて、シンハラ人は南部、タミル人は北部を主な活動の拠点としています。以上、とても解りやすい構成ですが、このように解りやすいグループ分けができる国は、かえって対立問題が起こりやすい、危ない国ということもできます。
さて、48年に自治を開始したスリランカでは、シンハラ人による独占的政権が確立します。表面的な政治形態は、統一国民党、スリランカ自由党という、シンハラ二大政党を擁する議会制民主主義国家でしたが、一方のタミル人には選挙権すら与えられませんでした。先にも触れたとおり、イギリス植民地時代に労働者として南インドから移住した約100万といわれるタミル人は、48年以降インド政府からも、スリランカ政府からも市民権を与えられず、無国籍のままで宙ぶらりんの状態が続いていたのです。
そんな中、56年に総選挙が行なわれますが、そこで大勝したスリランカ自由党によって謳われたのが「シンハラ・オンリー」というスローガンでした。政権を取った自由党は、バンダラナーイケ首相のもとで、シンハラ中心主義を貫く政策を推し進めて、公用語はシンハラ語となったほか、政府の要職、公務員、軍人や警官に至るまで、すべてシンハラ人が握ることになりました。公職に付くことができない一部のタミル人知識階級は、医師や弁護士、技師などの専門職につきますが、以前は英語で行なわれた大学の入試もシンハラ語に取って代わり、タミル語を話す人には高等教育への道も閉ざされたのです。
徹底したタミル人排除を推し進めたバンダラナーイケ首相は、59年に仏教僧によって暗殺されますが、60年にその後を継いだシリマヴォ・バンダラナーイケ首相夫人も、夫の政策を引き継ぎます。
こうして60年代、タミル人は各地であからさまな差別、時には虐殺の対象となっていきました。国内の、このような内紛を見た社会主義陣営、特に1970年に国交を樹立した北朝鮮は、71年、シンハラ農民層を中心にスリランカ人民解放戦線を組織し、反政府の武装闘争を支援しますが、海外勢力の支援もあってこれを鎮圧したスリランカ政府は、北朝鮮との国交を1年で断絶。翌72年、仏教を準国教とする新憲法を採択して英連邦王国から完全独立。国名もセイロンからスリランカ共和国へ変更しました。
しかし、このような政変もシンハラ人内部の権力闘争として起こったもので、一方のタミル人はそもそも政治に参加することさえままならない状況でした。72年に出来た新憲法も、「シンハラ・オンリー」の理念を踏襲するものでしたから、タミル人にしてみれば、このまま無抵抗で生殺しの目に遭うか、シンハラ社会からの分離を目指すかという選択を、いずれはしなければならない状態だったわけです。
3.タミル人の分離独立運動
というわけで、タミル人の分離独立運動は70年代後半から次第に拡大していきます。タミル・イーラム解放の虎(LTTE、76年結成)を中心とした武装組織や、タミル統一解放戦線という政党が結成されるのもこの頃です。
このようなタミル人の分離運動は当初、中央政府や71年に結成されたシンハラ人武装集団(JVP)などによってことごとく潰されてしまいますが、83年に起こったタミル人大量虐殺事件(7月暴動)以後は、タミル武装集団の動きが活発化します。タミル人を、座して死を待つのか、戦って死ぬのかという究極の選択肢に追い込んだのは、シンハラ人の偏った愛国主義でした。こうして、86年にタミル武装集団の統一を成し遂げたタミル・イーラム解放の虎(以下LTTE)は、その勢力を急激に拡張していきます。内乱に継ぐ内乱の結果、スリランカはタミル分離派の支配する北と、シンハラ派の南という二つの地域に分断されることになったのです。
しかしながら、数においてまさるシンハラ派は次第に優勢に転じ、北部のタミル地域を圧迫していきます。こうしてシンハラ派の優勢が確定的になった87年、インド政府は、タミル人の自治拡大を求める自らの和平調停案をスリランカ政府に押しつけ、インド平和維持軍の受け入れを迫りました。同じヒンズー教徒のタミル人は、インドの言うことを聞いて、おとなしくするだろうとタカをくくっていたわけですが、それは大きな間違いでした。インド主導の和平案は、タミル武装勢力側からも、シンハラ武装勢力側からも無視されることになるのです。
インドは、88年2月までに5万人規模の平和維持軍をスリランカに送りましたが、武力解放闘争の停止を拒むタミル派は、これらインド軍に対する全面対決を決定。その結果、インド平和維持軍側に犠牲者が続出します。結局、スリランカ国民の協力も、インド国民のサポートも得られないまま、インド政府は89年8月、スリランカからの撤退を決定。タミル対シンハリの抗争は、それ以後も続きました。
一方この頃、シンハラ政府のほうもタミル人との和解に乗りだします。88年に大統領に就任したプレマダサ氏はタミル語をシンハラ語とともに公用語にすることを決定したり、89年にはLTTEとの停戦にこぎつけたりして和平の道を模索しましたが、90年に停戦が破られ、93年にプレマダサ大統領が暗殺されると、双方の殺し合いが再び激化してきます。
4.徹底抗戦を貫いたクマラトゥンガ大統領
暗殺されたプレマダサ大統領の後を継いだチャンドリカ=クマラトゥンガ大統領(バンダラナーイケ元首相の娘)が94年末に政権を発足させると、次第にタミル分離運動に対する圧力を強化していきます。95年末には、政府軍が積極的攻勢に出て、タミル人分離運動の拠点になっていた北部のジャフナ市を奪回。96年4月19日からは、「サンシャイン2」という、池袋の高層ビルまがいの名が付いた大掃討作戦により、ジャフナ半島のほぼ全域を制圧しています。スリランカ北東部に追いつめられたLTTEは、残存勢力を結集して抵抗。96年7月には、過去最大といわれる激戦が繰り広げられ、双方に多大な死傷者を出しました。
97年4月には、与党自由党と、最大野党統一国民党との間で、スリランカ内戦終結に向けて共同歩調を取ると定めた協定が結ばれますが、それはあくまでシンハラ人の間の合意であって、最大の拠点であるジャフナ半島を失ったタミル武装勢力との交渉は進みませんでした。タミル武装勢力はその後、自爆テロを含めた多数のテロを展開。特に97年10月、98年3月のコロンボ中心街における爆弾テロは、多数の死傷者を出しました。
2004年に入るとLTTEが内部分裂して、スリランカ政府との協調路線を選択したカルナ派がLTTEの強硬派と内戦状態に突入。タミル武装勢力は著しく求心力を失います。2005年、クマラトゥンガ大統領の任期満了を受けた大統領選挙で当選したラージャパクサ大統領も、LTTEに対しては強硬策を取り続け、2007年には東部におけるLTTE最後の重要拠点であったトッピガラを攻略。2009年にはLTTE最後の拠点を制圧して、政府は同年5月18日に内戦の終了を宣言しました。
さて、2010年に再選されたラージャパクサ大統領は、内戦終了を受けて空港、港湾、高速道路や新都市建設を推し進めましたが、それらの大規模事業計画のために中国から借りた莫大な借金が財政を圧迫しており、スリランカの将来的な懸念材料となっています。2019年の選挙ではラージャパクサ大統領の弟のゴーターバヤ・ラージャパクサが大統領に選出されますが、返済に400年かかるとされる債務とどう向き合っていくのか、厳しい現実が待っています。
5.スリランカの国名は?首都は?
1972年、シリマヴォ・バンダラナーイケ大統領が仏教を準国教とする新憲法を採択して、英連邦王国から安全独立した際に、国名も「セイロン」から「スリランカ共和国」に変更されました。1978年にはジャヤワルデネ第二代大統領が、国名を、「スリランカ民主社会主義共和国」に変更。この国名が現在まで続いています。
ジャヤワルデネ大統領はまた、スリランカの首都をコロンボから近郊のスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテに移転することを決定しましたが、首都移転にまつわる建設事業が思わしく進まず、遷都は20年後の98年に完了しました。よって、現在の首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテです。
ちなみに、1972年、スリランカが英連邦王国から独立した際、セイロン自治領の最後の提督ウイリアム・ゴパッラワ氏が初代大統領に就任しますが、実際にスリランカに大統領制が導入されたのが1977年の憲法改正によってでした。ですからこの新憲法の下で78年2月に大統領に就任したジューニアス・リチャード・ジャヤワルデネ氏が、新憲法下での初代大統領となります。
コラム:『日本の知己ここにあり』
スリランカの実質的な初代大統領、ジューニアス・リチャード・ジャヤワルデネ氏は、1951年のサンフランシスコ対日講和会議でセイロン代表として演説し、ブッダの「憎しみは憎しみによってやまず、愛によってやむ」との言葉を引用して、対日賠償請求権の放棄を宣言するとともに、日本に完全な自由、独立を保障し、日本を国際社会の一員に復帰させる必要性を訴えたことで有名。『日本の知己ここにあり』は、当時の吉田茂全権代表(首相)がジャヤワルデネ氏の演説に接して感じ入った言葉。