ジョージア関連の紛争

南オセチア、アブハジア、アジャリア

出典:外務省HP 

 ジョージアと言っても、アメリカの州でも缶コーヒーでもありません。2015年以前は「グルジア」と呼ばれていた黒海東部にある独立国家です。イエスの12使徒の教えを直接受け、アルメニアとともに世界で最初にキリスト教を国教とした民族として有名で、後にロシア正教会に併合されることになるジョージア正教会は、もちろんロシア正教会よりも歴史と伝統があり、ジョージア聖歌のポリフォニー(多声音楽)は、ユネスコの文化遺産に登録されています。紀元前から伝わるといわれる独自の文字も持っており、12世紀までは、イスラムとモンゴルの侵入を抑えるヨーロッパ最前線のキリスト教国という立ち位置にありました。

 18世紀後半には、殖産興業で国力を高めたエレクレ2世が1779年にオスマントルコの支配から脱却することに成功しましたが、その後のペルシャとの対立で同じ正教徒であるロシアと保護協定を結んだのが間違いのもとでした。エレクレ2世の率いるジョージア軍は、カジャール朝ペルシャの侵入に対抗しますが、保護してくれるはずのロシアが動かず、結局1795年、首都トリビシは陥落。以後、ペルシャ軍が撤退したジョージアを何の苦労もなく手に入れたロシアは、1991年まで支配的に統治することになったのです。他国と結んだ国際条約を平気で破るのは、昔も今も変わらないロシアの伝統なのかもしれません。

 ジョージアの人口の8割以上を占めるカルトヴェリ人は、よって筋金入りのロシア嫌いで、その対立の歴史は18世紀の帝政ロシア以来現在まで続いています。以下では、ソ連崩壊後にジョージアがらみで起こった3つの紛争を見ていきましょう。ちなみに大相撲の黒海、臥牙丸、栃ノ心はジョージア出身の力士です。

1.南オセチア自治州

 1991年4月にジョージア共和国が独立をすると、国内でくすぶっていた民族問題が一気に表面化します。ジョージア共和国には8割を越すカルトヴェリ(ジョージア)人と、1割弱のアルメニア人が、人口7%前後のロシア人と共存しているという、圧倒的なジョージア人国家ですが、人口の3%を占めるオセット人は90年、ジョージア北部と国境を接する北オセチアへの編入を求めて、南オセチア自治州の主権を宣言。91年には独立を宣言して、これを拒否するジョージア政府との紛争に突入します。

 紛争は92年6月、ロシアのエリツィン大統領とジョージアのシュワルナゼ大統領、南北オセチア自治州の指導者の合意によって停戦を迎えますが、南オセチア自治州の指導者たちは、ナゴルノ・カラバフ自治州など、他の独立要求地域との連帯を深めて、共同で独立への主張を繰り返すという手段に訴えました。もちろん、その裏にはロシアの後押しがあったわけです。

 南オセチアでは92年より全欧安全保障協力会議(OSCE)の常駐監視団が展開して、平和を維持していましたが、94年には駐留ロシア軍が国連によって平和維持軍と認定され、これによって南オセチア自治州の主権は、事実上ロシア側が管理するものとなり、ジョージアとしては禍根を残す結果となりました。

 そんな中、2008年に、「ロシアの徴発を受けた」とされるジョージア軍が南オセチアに進軍します。それに対してロシア軍は猛然と反撃。西からジョージア領内に侵攻して、ジョージアの管理下にあったアブハジアと南オセチアの独立を承認して駐留軍を展開しています。現在、アブハジアと南オセチアの独立は、ロシア以外には国際的に承認されていませんが、別名ロシア・ジョージア戦争と呼ばれるこの紛争は、冷戦後にヨーロッパで起こった初めての大規模戦争とされ、影響力の拡大のためには武力介入も辞さないというロシアの姿勢が明らかになりました。

2.アブハジア自治共和国

 ジョージア内のアブハジア自治共和国は、南西部を黒海に、北部をロシアに接する土地ですが、民族構成的に見ると、ジョージア人が46%近くを占め、アブハジア人は18%程度です。よって、分離独立運動といっても正当性がないとするジョージアの意見も、もっともなのですが、実はロシアがアブハジア人の独立運動を密かに支援したことが紛争拡大への原因となりました。

 アブハジア人は、8世紀にビザンチン帝国から分離独立してアブハジア王国を建国した歴史を持つ西カフカス地方の民族ですが、オスマントルコ帝国の支配下でイスラム化して現在にいたっています。1810年にロシア帝国に併合されてからは数々の抵抗運動を繰り広げますが、ロシアの十月革命では西カフカス地方で革命の主導的な役割を演じたことで有名です。ただし、1921年にジョージア共和国へ併合されてからは、ジョージアを離脱してロシアへの編入を希望する運動が繰り返されました。

 1989年にはスフミで大規模な民族衝突が勃発しますが、ジョージアはアブハジア問題の背後にロシアの関与があるとの不信感を抱き、態度を硬化させます。92年の軍事クーデターでシェワルナゼが政権を握ると、アブハジア独立運動は再び活性化。7月にはアブハジア共和国の独立を宣言するに至ります。これを見たジョージア政府は軍をアブハジアに派遣。戦闘で1万人にも上る死者が出たと言われています。結局94年の春、ジョージアはアブハジアに独自の憲法制定と議会の開催を許すという、限りなく独立に近い自治権を与えることになりましたが、黒幕のロシアは、同和平協定の後にアブハジアに軍を駐留させます。国連の安全保障理事会も、これを平和維持軍として認めたため、アブハジアは労せずして新憲法を採択。11月にはアルジンバ新大統領を選出して独立宣言を行いました。

 これで、紛争自体は全面対決の段階から脱却したわけですが、その後、両側の主張の擦りあわせでかなりの時間が費やされました。95年に両者が「双方が一つの国家を造る努力をする」ことで合意し、国連の仲介で和平交渉が持たれますが、同会談も決定的な妥協策を見出せないままに2008年、ジョージア軍の南オセチア侵攻を発端とするロシア・ジョージア戦争が勃発。ロシア軍とともにこれに参加したアブハジア軍はジョージアの一部を占領。それを併合する形で再び独立宣言をして、現在に至っています。

 この様に、ロシアの強い影響のもとで独立国家としてふるまっているアブハジア自治共和国ですが、2008年に併合された領地の帰属と、その際アブハジアから追放されたジョージア人難民の問題も残されたままとなっており、ジョージアとは最終的に決着していない問題としてくすぶり続けています。

3.アジャリア自治共和国独立運動

 アジャリアは、黒海南西部の重要な港町です。ソ連崩壊後の1991年、ジョージアが独立すると、独立後の混乱のすきをついて、ジョージア中央政府の譲歩を引き出し、ほぼ独立国家ともいえるステータスを勝ち取りました。その後の12年間、親ロシアのアバシゼ議長がジョージアと分断する形で共和国の運営に携わってきましたが、2004年、ジョージアでサアカシュヴィリ大統領が選出されてからは、アジャリアを含む国土統一の機運が高まりました。アバシゼ議長はジョージアとの国境を封鎖したり、橋を爆破したりして最後まで抵抗しますが、最後はロシアの辞任勧告を受け入れ出国。アジャリアは、改めてジョージア内の自治共和国として再出発しました。

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