シンガポール共和国

出典:外務省HP 

1.シンガポールの成り立ちを教えてください

 シンガポールは、マレー半島の先端にある、ちょうど京都市ほどの面積の島国です。この小さな国には豊富な天然資源もありませんから、産業は、原材料を輸入して、それを加工して輸出するという、いわゆる加工貿易が主体となっていますが、一人あたりの国内総生産は常に世界のトップレベルの経済大国で、エコノミストは2013年以来シンガポールを最も住みやすい都市として格付けしています。またシンガポールの成功は、世界第2位というシンガポール港の貨物取扱量にも象徴されています。

 このシンガポールは、きわめて人工的な国家です。それも、ある一個人のアイデアによって作られたといっても過言ではありません。その個人というのはトマス・ラッフルズというイギリス人です。14歳で東インド会社の職員になったラッフルズは10年後、マラヤのペナン島に赴任します。イギリス領ペナンは、当時、東南アジアにおけるイギリスの新しい拠点でしたから、若くて働き盛りのラッフルズにとっては働き甲斐があったのでしょう。結局、働き過ぎで倒れてしまったのですが、3カ月の療養中に彼はマラッカの重要性を指摘する長文の報告書を書きあげ、当時マラッカからの撤退に傾きかけていたイギリス政府の姿勢を変えてしまうのです。

 これが、本社の社長(東インド会社のミントー総督)の目にとまり、1810年、彼は東インド会社マレー諸州担当総督代理に任命され、翌年、オランダ領ジャワ占領のために力を遺憾なく発揮しました。5年間のジャワ統治を終えてイギリスに帰国したラッフルズは17年、スマトラ副総督として再び現地に赴任しますが、当時の東南アジアはオランダ勢力の独壇場でした。当時のイギリスにおいて、東南アジアの重要性を一番認識していたラッフルズは、オランダ勢力に対抗するためのイギリスの新たな足場づくりを、マレー半島最南端の島、シンガポールに求めたのです。

 19年、ラッフルズは、当時だれも注目していなかったこの島の住民と交渉してイギリスの植民地とし、22年から24年まで、詳細にわたる行政機構を整備して自由貿易港としてのシンガポールの礎をつくりあげます。24年にイギリスに帰国したラッフルズはその2年後に永眠しますが、24歳から43歳までの20年余りをイギリスの東南アジア進出のために尽くしたラッフルズの努力がなければ、現在のシンガポールの繁栄もなかったといって良いでしょう。

2.シンガポールとマレーシアの関係は?

 ラッフルズの努力の結果、イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールという三つの自由港を獲得します。これらは1867年に、俗に海峡植民地と呼ばれるイギリスの直轄植民地となりましたが、その後のマレー半島の混乱に乗じて、イギリスは次第に半島に勢力を拡大。96年には、マレー人四王国を統合して、「マレー連合州」を設立することに成功します。1909年には、シャム(現タイ)王国から北部4州を譲り受け、これでマレー半島南部に「イギリス領マラヤ」という植民地を建設することになるのです。

 よって、第二次世界大戦前夜、イギリスはマレー半島に「イギリス領マラヤ」を、ボルネオ島北部のサラワク、サバに直轄植民地を、そして保護領としてブルネイを、そしてペナン、マラッカ、シンガポールの三自由港をイギリス直轄の海峡植民地として保有していたわけです。これらのイギリス植民地は第二次世界大戦中、日本の支配下に入るわけですが、日本敗戦後、イギリスはまずイギリス領マラヤの独立を支持。1948年にマレー人に対する特権を約束する連邦協定を結んで、旧イギリス領マラヤを「マラヤ連邦」としてシンガポールから切り離します。マラヤ連邦では55年に総選挙が行なわれ、初代首相アブドゥル・ラーマンによって、1957年に完全独立を達成することになりますが、このとき、なぜイギリスはシンガポールをマラヤ連邦から切り離したのでしょうか?

 答えは、マラヤ連邦の成立過程にあります。イギリスは、マレー半島南部の植民地統治において、もともとマレー人を重用する政策を採ってきましたが、このマレー人優遇主義は第二次世界大戦中の日本の支配下で、さらに強化されました。このマレー人優遇政策は戦後再び現地の支配者となったイギリスによって受け継がれたため、結果として人口3割を占める華人の反感を招いたのです。一時は、華人の急進勢力が中国共産党と結んでゲリラ戦を展開するといった不穏な事態も出てきたほどです。

 結局、マラヤ連邦における華人問題は、穏健派の華人の協力のもとで穏便に収まり、1955年の総選挙につながったわけですが、一方、人口の77%が華人で占められるシンガポールが、「マレー人第一主義」を掲げるマラヤ連邦に組み込まれることは、どう考えても無理な話でしたし、無理に統合すると、せっかく国際貿易港としての地位を築きあげつつあるシンガポールの安定を傷つけかねません。よって、「海峡植民地」のうち、マレー人主体のマラッカ、ペナン両港はマラヤ連邦に加入し、華人中心のシンガポールは、イギリス領として独自の動きをすることになったわけです。

 さて、こうしてマラヤ連邦から隔離されたシンガポールでしたが、シンガポールもマラヤ連邦の独立を指をくわえて見ていたわけではありません。実際、マラヤ連邦で総選挙が行なわれた同じ年の55年には、シンガポール初の総選挙が行なわれ、同時にイギリスとの独立交渉が始まりました。そして、59年の第2回総選挙では、人民行動党が圧倒的な勝利を収め、党首であるリー・クワン・ユー氏を初代首相とするイギリス連邦シンガポール自治州が発足。そして、1963年8月31日、シンガポールはイギリスからの完全独立を達成するのです。

 さて、マラヤ連邦のラーマン初代首相は57年の独立達成以来、マラヤ連邦と、シンガポール、ボルネオ北部のイギリス領(サラワク、サバ、ブルネイ)をまとめてマレーシア連邦を形成するという連邦構想を暖めていました。そして、シンガポール独立の半月後、それがほぼ現実のものとなるのです。結局、ブルネイの参加は得られませんでしたが、マラヤ連邦は、ボルネオ島北部のサラワク、サバ両州とシンガポールの参加を受け、63年9月16日に発足することになりました。

 しかし、新生マレーシア連邦はここで古傷に触れざるを得ませんでした。前述したように、マレー人第一主義を掲げるマラヤ連邦と、華人中心のシンガポールには、国家建設の方向性に根本的な認識の相違があり、この溝を埋め合わせるためには双方ともに相当な譲歩が必要でしたが、結局マラヤ連邦側ではマレー人と華人の対立が表面化。一方の、シンガポールも、連邦加盟によってかなりの財政負担を強いられることがわかり、結局2年後の8月9日、シンガポールはマレーシア連邦から脱退して、独立することになったわけです。

3.リー・クワン・ユー氏とは、どんな人ですか?

 名実ともに、シンガポールを世界トップレベルの経済大国へと導いた強力な指導者です。シンガポールの基礎をつくったのがラッフルズだとすると、それを育てた人がリー・クワン・ユー(李光耀)氏であることは間違いないでしょう。1959年の第2回総選挙でシンガポール自治国初代首相になり、また65年、マレーシア連邦脱退後には、シンガポール共和国初代首相となって以来1990年までの長期にわたってシンガポールのリーダーとして、国家の発展に寄与してきました。90年にゴー・チョクトンに首相の座を譲ったリー・クワン・ユー氏は、上級相となり、さらに2004年にはシェンロン政権の内閣顧問として影響力を与え続け、2011年に政界から引退。2015年に亡くなるまで、シンガポールの安定と発展に尽力されました。

 リー・クワン・ユー氏の特徴は、第一に、社会正義を政治目標として掲げたことと、経済面では第三世界にありがちな社会主義的手法を取らずに、現実的な工業化政策を貫いた点があげられます。ちなみに、リー・クワン・ユー氏は「唾を吐いたり、ガムをかんだり、ハトに餌付けをしたりした300万人のシンガポール市民を罰することの効果についての30年にわたる研究」で1994年にイグノーベル賞を受賞しています。亡くなるまで、シンガポール国民のお手本であり続けられた政治家でした。

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