シリア・アラブ共和国

出典:外務省HP 

1.シリアの歴史を手短に教えて下さい。

 東地中海の一角を占めるシリアおよびレバノンは、いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一角として、また東西貿易中継地点として古代から栄え、アッシリアやヒッタイトなどの文明の発祥地としても有名です。貿易の中継点という性格上、様々な民族が入ってきますから、侵略も多く、支配者も数限りなく変遷しました。ざっと見ても、ギリシャ、ローマ、十字軍、モンゴル軍などの支配を受けた後、1516年、400年にわたるオスマントルコの統治時代にはいります。

 オスマントルコ時代のシリアは、アレッポ、ダマスカス、トリポリ、アレクサンドレッタという4つの州に分割統治されていましたが、このうち、アレクサンドレッタ州は、現在トルコ共和国に併合されてヘタイ州となっており、シリアとトルコ間の領土問題として現在まで未解決のまま残っています。

 さて、現在のシリアの国境が形作られたのがフランス委任統治時代でした。第一次世界大戦でオスマントルコが敗れると、イギリスとフランスが中東諸国を二分して間接統治することになりますが、シリアとレバノンは1920年、フランスの委任統治領になります。このときフランスが引いたシリアとレバノンの境界線が現在のシリアとレバノンの国境線となっています。

 さて、第二次世界大戦後の1946年、フランスの撤退によりシリアは独立しますが、独立間もない48年、これまた独立したてのイスラエルに対し、他のアラブ諸国と一緒に戦争を仕掛けて敗戦を喫します。このことが国内に混乱を生んで、シリアは、49年に2回、51年、54年にそれぞれ一回のクーデターを経て軍人の力が強まる結果となります。

 その一方で、シリアでは全アラブの統一を目標とする「バース主義」が、ミッシェル・アフラク(ダマスカス出身のギリシャ正教徒)やサラーハッディーン・ビータール(ダマスカス出身のイスラム教徒)などの識者から提唱され、1947年にバース党として結成されます。このバース党はイラクにも支部を持ち、エジプトのナセル大統領が提唱したアラブ民族主義とともに、この時代のアラブ民族運動を支えていきます。

 創設者のミッシェル・アフラクがギリシャ正教のキリスト教徒という点も、興味がそそられます。彼の理念は、アラブ民族は、イスラム教、キリスト教などといった、宗教的分類に従うべきではなく、統一されるべきは、あくまでも「アラブ民族」なのだという点です。このことからもアラブとイスラムは同義語ではないことがお分かりいただけるかと思います(ユダヤ人とは?参照)。

 全アラブの統一を唱えるバース党の勢力は50年代に拡大。その目標実現の第一歩として58年にはエジプトと統合して「アラブ連合共和国」を結成するといった、具体的な行動に出ます。結局この連合共和国は、エジプト主導の人事や経済政策への反発がもとで長続きせず、61年に統合を解消せざるを得なくなりますが、後にも先にも、「アラブ民族主義」の掛け声のもと、アラブ諸国が本当に統合までした例は、これ以外ありません。

 さて、63年にイラクでバース党主導のクーデターが起こり、政権を樹立した一か月後、シリアでも無血クーデターでバース党主導の政権が樹立されますが、その後しばらく急進派と穏健派との間で抗争が続きました。67年の第三次中東戦争で、シリアはイスラエルに大敗。ゴラン高原を占領される結果となりましたが、それが再び政権内の主導権争いに火を付け、政局は一向に安定しませんでした。結局70年に穏健派のハーフィズ・アル・アサド国防相が無欠クーデターで首相に就任して、翌年の国民投票で大統領に当選。これ以降、アサド大統領はバース党の独裁的な政権を維持してきました。

 アサド大統領は、78年のキャンプデービッド会談でイスラエルとの関係を強化したエジプトのサダト・エジプト大統領を裏切り者として断交。リビアやパレスチナ解放機構(PLO)などアラブ強硬派と共に反イスラエル抗争の表舞台に常に立ち続けました。

 アサド大統領はまた、国内の反政府勢力に対して、強硬な姿勢をとり続けたことでも有名です。特に1980年、82年に起こったイスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」の反政府活動を徹底的に弾圧。数万人ともいわれる死者を出しました。

2.アサド大統領死後のシリアの体制はどうなりましたか?

 2000年6月10日に死去したアサド大統領の跡継ぎは、長男のバースィル・アサドが有力視されていましたが、交通事故で事故死したため、英国に留学中の医学生だった次男のバッシャール・アサド氏が就任。アサド氏は就任早々、汚職追放キャンペーンや、「ムスリム同胞団」ら政治犯の釈放、63年以来続いていた非常事態宣言と戒厳令の解除、さらには腐敗の排除を行うなどの改革を行いました。

 ところが、安定的に権力の移譲が行われたシリアに大きな問題が立ちはだかります。2010年末に起こったアラブの春に影響を受けた反政府勢力の出現です。

3.アラブの春とシリア内戦

 2010年に、チュニジアの民衆蜂起がきっかけとなった民主化運動は、エジプト、リビアの政変を促してアラブ世界に急速に広がり、抑圧された民衆が立ち上がって民主主義を勝ち取る姿は「アラブの春」ともてはやされましたが、その民主化の波はシリアにも飛び火して、長期にわたって続いているバース党一党独裁に対する反対勢力として活動を始めます。

 民主化と聞いてアメリカが刺激されないわけがありません。当初は政府軍と民兵組織の小競り合い程度の対立関係だったシリア内戦は、次第にアメリカが擁護する反政府組織と、ロシアなどが強力に後押しをするアサド政権側とに分かれ、特に反政府側が自由シリア軍という武力組織を結成する2012年以降深刻な内戦状態に突入します。

 内戦状態にシリアに目を付けたのがイスラム国(IS)でした。ISは2013年に、シリアの反政府組織のヌスラ戦線を取り込んでシリア国内に勢力を拡大。2014年には米国をはじめとする有志国がISへの空爆を開始します。

 つまり、この時点でシリアでは政府軍と、反政府勢力、それとイスラム国勢力が三つ巴で戦闘を繰り返していたのです。2015年には、当初イスラム国と歩調を合わせていた反政府勢力がイスラム国との戦闘に参加。さらには、クルド人武装組織がアメリカ軍と共同でイスラム国への攻撃を開始します。これにはトルコ軍も加わり、イスラム国に対して空爆を行いますが、同時にトルコ政府の宿敵であるクルド人勢力も空爆したことで、クルド人独立派を刺激しました(クルド人問題参照)。イスラム国に対する空爆にはロシアも参加。シリア国内の内戦では敵同士だったアメリカとロシアが、共通の敵であるイスラム国への空爆に協力するという複雑な関係でした。

 イスラム国は、2017年にはシリアとイラクの拠点のほとんどを失い、2019年に指導者のバグダーディーが殺害されてからは、ほぼ影響力を失います。その裏で、一時は影響力を失っていたシリア政府は、2019年にはシリア国内の支配地域を大幅に奪還して、ロシアやイランの協力を得て、再びシリア内の反政府勢力の撲滅を目標に掲げているため、シリア内戦の終結の糸口はつかめていないのが実情です。

4.シリア難民の現状は?

 2011年より次第に激化するシリア政府軍と反政府勢力の戦闘、2013年から2017年まで続いたイスラム国にまつわる戦闘、さらにはイスラム国崩壊後に再開した政府軍と反政府勢力の対立、それに加えてクルド人勢力撃退のために越境攻撃を加えるトルコ政府軍。それらすべてが民衆の命を奪い、家を奪い、生活のすべを奪い、そして将来への希望を奪いました。

 2019年現在でシリア国内に避難している国内避難民は660万人そのうち460万人が危機的な状況にあるということです。レバノン、ヨルダンやトルコなどの近隣諸国やヨーロッパなどに渡った難民は100万人に上り、その途中で命を落とす人たちが後を絶ちません。また、シリア難民の受け入れ国となっている近隣諸国も、すでに受け入れが許容範囲を超えており、新たな社会問題となっています。

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