シエラレオネ共和国
出典:外務省HP
1.シエラレオネの歴史を教えてください。
「ライオンの山」という名のついたシエラレオネは、リベリアと並んで、開放された黒人奴隷の受入国として発展しました。15世紀にポルトガルが訪れて象牙や奴隷の貿易をはじめたことは、アフリカの他の地域と同様ですが、それ以後の展開が他とまったく異なります。イギリスの奴隷解放論者が、開放された奴隷のための街を作ろうと、「シエラレオネ会社」を設立して、1787年、シエラレオネにやってくるのです。こうして出来上がったのが、文字通り自由の街、現在の首都フリータウンです。
1808年、イギリスの植民地となったフリータウンには海軍基地が建設され、そこを拠点に奴隷貿易の取り締まりが一層強化されました。彼らは大西洋上で奴隷貿易船を発見すると、その奴隷をフリーポートで解放して、西欧式の教育を施したため、解放奴隷の人口は一気に増加しました。当時のシエラレオネは、北部はイスラム教徒のテムネ族に、南部はメンデ族によって占められていて、基本的にこの人口構成が現在まで続いているのですが、これに加えて、開放された黒人奴隷が沿岸に建設されたフリータウンを足がかりに勢力範囲を広げていったのです。クレオール(解放奴隷)と呼ばれた彼らの多くはキリスト教に改宗し、またイギリス人によって高等教育を施され、次第にシエラレオネの中核を構成していくことになります。
クレオール人口の増加とともにイギリスの影響力は内陸部に拡大し、1896年には、現在のシエラレオネ全土を保護領とします。
2.独立と混乱
シエラレオネでは、他のアフリカ諸国と同様に、政治腐敗と軍部のクーデターが繰り返されましたが、90年代を通じて全土を荒廃させた内戦の原因は、実はダイヤモンドでした。
シエラレオネにおける民主運動の動きは、第二次世界大戦終了後の活発化。選挙権を与えられた保護領の住民、特に南部のメンデの支持を受けたミルトン・マルガイ(Milton Margai)は1950年、シエラレオネ人民党(SLPP)を結成して51年の選挙でイギリス系のシエラレオネ殖民地国民会議(NCCSL)に勝利。57年の選挙で再選され、マルガイは首相に就任します。60年にはイギリスと独立交渉を開始し、61年4月、イギリス連邦の独立国となります。
1964年にマルガイ首相が死去すると、その異母弟アルバート・マルガイ(Albert Margai)が首相に任命されますが、彼は67年、独断で共和制移行を推し進め、野党全人民会議(APC)との緊張関係が高まりますが、その隙を突かれた形で軍部がクーデターを起こし、政権を掌握します。68年には軍部が手を引く形で再び民政が復帰しますが、今度は67年の選挙結果を踏まえて、野党のスティーブンズ(Siaka Stevens)が首相に就任しますが、反対勢力を解散させるなど、スティーブンズもかなり独裁的に政治を進めました。71年にはクーデター未遂事件もありましたが、それを乗り越えたスティーブンズは同年、共和制を導入した憲法改正を成立させ、共和国の大統領となりました。それ以後70年代を通じて、APCの一党独裁で動いた政局でした。実際、78年にはAPCの一党独裁を認める憲法が採択され、シエラレオネは文字通り、一党独裁国家となったのです。
ところが、そのような不健全な政体が民衆に受け入れられるはずもなく、82年に行われた不正まみれの選挙では、民衆の暴動が発生。その後80年代を通じて、シエラレオネは不穏な雰囲気に包まれました。85年、スティーブンズに代わって、モモ少将が大統領に選出されても事態は収拾せず、87年にはクーデター未遂事件が発生しました。
結局不人気の一党独裁制に見切りをつけたモモ大統領は、91年、複数政党制を定めた憲法改正案を採択しますが、時すでに遅し。実は、中央の権力争いよりももっと大規模な勢力争いが、ダイヤモンド鉱山がある東部地域で巻き起こっていたのです。簡単にいえば、ダイヤモンド鉱山の支配権争いです。
3.ダイヤモンド紛争
シエラレオネのダイヤモンドは、西アフリカ・ダイヤモンド会社が独占権を握っていますが、それに反対する勢力が、反政府勢力の革命統一戦線(RUF)と結んでゲリラ闘争を開始。RUFを支持するリベリアや、調停役をつとめたナイジェリアなど、周辺諸国をも巻き込む大規模な内戦に発展しました。
そんな中96年に大統領選挙が行われ、シエラレオネ人民党(SLPP)のカバー党首が大統領に選出。カバー大統領はRUFとの和平交渉を積極的に推し進め、同年包括和平協定調印も実現したため、内戦もやっと収束するかと思った矢先、今度は97年にコロマ少佐が軍事クーデターで政権を掌握します。これをみたナイジェリアは、西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を率いて経済制裁を勧告するとともに、98年春にシエラレオネに侵攻して首都を制圧。コロマ政権を崩壊させて、カバー大統領の復権を実現しました。国連も98年7月から、国連シエラレオネ監視ミッション(UNOMSIL)を派遣。これで一件落着と思った矢先、今度は99年、RUFがフリータウンに侵攻して大統領官邸を占拠します。しかしこれもECOMOGが奪回。その後、国連は国連シエラレオネ派遣団(UNAMSIL)を常駐させることになります。
しかし、2000年にECOMOGからナイジェリアが撤退したことで、さらに情勢ががらりと変わります。鬼の居ぬ間に、とばかり、RUFがこともあろうか国連のミッションであるUNAMSILを攻撃。500名のPKO要員が拘束される事件が起きました。しかしPKO要員は、RUFとつながりのあるリベリアのテーラー大統領の仲介で解放。逆にRUFは、戦闘でサンコー代表が拘束されてしまい、急に勢いを失ってしまいます。
政府とRUFは、2000年11月停戦に合意。2002年3月に内戦は終結しました。またRUFの陰で暗躍していたリベリアのテーラー元大統領は、戦争犯罪の罪で起訴され、2006年、亡命先のナイジェリアで拘束されました。