サウジアラビア王国

出典:外務省HP

1.サウジアラビアの歴史を簡単に教えて下さい。

 現在のサウジアラビアの歴史は、それほど古いものではありません。もちろん、サウジアラビアのあるアラビア半島の歴史は非常に古いのですが、現在のサウジ王家が歴史に登場するのは、ワッハーブ運動の結果です。

 ワッハーブ運動というのは、18世紀の中ごろ、中央アラビアで起こった復古主義運動ですが、簡単に言うと、時代が生み出した腐敗と退廃を正し、ムハンマドの説いた生粋のイスラム教徒に戻ることを説いたもので、昨今大流行の「イスラム原理主義」の走りです。この時代は、今まで圧倒的に優勢だったイスラム世界が、産業革命後の西欧に逆転され、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、すべての面で衰退期に入っていたころでした。「ムハンマドの説いた絶対の真実を信じるイスラム教徒が西欧の力に屈することは、すなわち、われわれが真の力を発していないからだ。だからわれわれはもう一度ムハンマドの時代に戻り、生粋のイスラムの教えを追求しなければならない」というのがワッハーブ運動の主旨です。「我々がこんなに虐げられているのはあいつらのせいだ」と言って、西欧社会にテロ攻撃を仕掛けるような浅薄な「イスラム原理主義」とは訳が違いますね。

 このような崇高な精神的運動をアラビア半島に広げたのがサウード家だったのです。第一次サウード王朝は、1745年に成立し、約70年間継続しますが、アラビア半島で巻き起こったこの神政王国思想が外に及ぶことを恐れたオスマントルコ帝国は、エジプトのムハンマド・アリーをアラビアに遠征させ、サウード王朝を殲滅します。

 その後第二サウード王朝(1825-1891))がリヤドで興りますが、後継者争いが絡む内部分裂で、これも70年と持ちませんでした。サウード一族はクウェートに一時避難して力を蓄え、1902年、イブン・サウド(アブドル・アジズ2世)が軍勢を率いて再びアラビアの土地を踏みます。イブン・サウドは24年にメッカ、25年にヘジャズ地方を征服して、32年にサウジアラビア王国を建国することになりますから、現在まで続くこの王朝は、厳密に言うとサウード第三王朝ということになります。

 さて、建国から間もない38年、東部州ダーラン近郊で油田が発見され、第二次世界大戦後、アメリカ系石油メジャーのアラムコによって開発された油田は、現在でも世界最大の埋蔵量を誇っています。

国家としてのサウジアラビアの基礎は、第三代ファイサル国王の時代に整いました。ファイサル国王は、閣僚会議の創設や国家基本法の制定など近代国家の基礎を築きました。対外的には1973年の第四次中東戦争では、アメリカのイスラエル軍事援助を不満として、親イスラエル国家には石油は売らないという、石油戦略を発動。オイルショックを誘発するなど国際社会に非常に強い影響を与えました。

 75年、ファイサル国王が甥のムサイド王子に暗殺され、ハーリッド皇太子が第4代国王になりますが、このハーリッド国王の時代、1979年末に、サウジアラビアが転覆するような大きな事件が立て続けに起こります。一つはスンニー派イスラム教徒による聖地メッカのハラム大寺院襲撃事件です。彼らはサウード家の腐敗を正し、王制の正当性を否定する声明を出して、数日間寺院に立てこもりましたが、結局外国人特殊部隊の導入で事件を解決しました。あと一つは、イランのイスラム革命に影響を受けた東部油田地帯のシーア派住民が、サウード家に対し反乱を起こしたものです。東部の油田地帯にはシーア派住民が多く、彼らがイランのシーア派革命の影響を受けてスンニー派のサウード王制が標的になることになれば、世界有数の油田地帯が危機にさらされることになります。この状況は現在でも変わらず、サウード王制の、東部油田地帯に対する警戒心には並々ならぬものがあります。

 さて、イスラム教の聖地メッカを擁するサウジアラビアでは、毎年かなりの数のイスラム教徒が世界各国から訪れます。そんな中、1987年には巡礼(ハッジ)期間中の聖地メッカで数千人のイラン人巡礼団が反米デモを行い警官隊と衝突。402人が死亡、約700人が負傷する事件が発生します。このことで、サウジアラビアとイランの関係が悪化。ファハド国王は88年、イランとの国交を断絶。湾岸戦争時には、イランが米軍の駐留を容認したサウジアラビアの姿勢を非難するなど、サウジ・イラン関係は、非常に冷え込んでいた時期がありました。

 しかしながら、湾岸戦争後、健康不安を抱えるファハド国王に代わって実権を握る次期国王候補のアブドラ皇太子が97年、テヘランで開かれたイスラム諸国会議機構(OIC)首脳会議に参加したことから関係が改善。イランのハタミ大統領は99年にサウジを訪れてファハド国王らと会談。2000年にはイラン革命後はじめてイランの国防相がサウジアラビアを訪問するなど、二国間の関係に回復の兆しが見られました。

 しかし、いったんは改善の兆しが見えた対イラン関係でしたが、2015年に始まったイエメン内戦がきっかけとなり両国の対立関係は再燃して、イエメン内戦はイランとサウジアラビアの代理戦争に発展して現在に至っています。ちなみにイランとの国交は2016年に再び断絶しています。

2.統治形態はどのようになっているのですか?

 サウジアラビアには明文化された憲法や議会などはありません。あるのは、最高国家会議、長老王族会議、最高ウラマー会議と部族長会議という、王族間の意見調整の場です。非王族は、閣僚会議と呼ばれる立法機関を通じて国政に参加できますが、決定権はありません。93年には民主化の要求に応じて、大学教授ら民間人男性90人によって構成される諮問委員会が設置され、国政に対する助言機関としての機能を果たしています。

 また、最大2万人と言われる王族の中でも一番力のある王閥が「スデイリ・セブン」と呼ばれる7人の王子たちの家系です。初代アブドル・アジズ国王の妻の一人だったスデイリ家の長女ハッサ妃が産んだ7人の男子はファハド、スルターン、アブドゥルラハマーン、ナーイフ、トゥルキー、サルマーン、アハマドですが、これら7名の子の家系が現在のサウジアラビアの中枢を抑えていると考えてよいでしょう。ちなみに現在の王位継承権第一位のムハンマド皇太子もサルマーン国王同様スデイリ家出身です。


*サウジアラビア歴代国王と出身家

アブドゥル・アジーズ(サウード家 1880-1953)

サウード(サウード家 1953-64)

ファイサル(サウード家1964-75)

ハーリッド(サウード家1975-82)

ファハド(スデイリ家 1982-2005)

アブドゥッラー(サウード家 2005-2015)

サルマーン(スデイリ家 2015-)

ムハンマド皇太子(スデイリ家)


3.将来の不安材料はありますか?

 若年労働力の問題があります。サウジアラビアの問題は、人口の半分以下が25歳以下という特異な人口構成です。日本をはじめとする先進国の多くが人口の高年齢化と若年労働人口の不足に悩まされているのに対し、サウジアラビアでは若年労働者を吸収する雇用機会が不足しているのです。

 サウジアラビアでは、現在までに潤沢な石油収入を使って、教育も医療も、ほとんどタダの大盤振る舞いで、就労に対する意識が非常に低いという現実がありますが、2014年以降特に顕著になる世界の原油価格の下落によって、サウジアラビアの財政も余裕がなくなってきました。今まで政府や各種公共団体などに予算を付けて、国家公務員として就労させることで失業状態を緩和してきたサウジ政府も、累積債務がかさんで就業対策に決定的な答えが見つかっていないのが現状です。

 若年層の就業問題は、サウジアラビアにとって永遠の課題で、政府は国内産業の活性化を図るために2000年には外国投資法を抜本的に改正。外国からのプロジェクト投資を無条件で許可し、それに伴う法人税の税率を軽減したほか、外国人の土地など資産の100%所有も認めるなどの優遇措置を提供しています。

 2016年にはムハンマド皇太子が中心となって「ビジョン2030」という経済改革を打ち出しており、これが念願の国内産業の活性化につながるか、その行き先が注目されています。

4.サウジアラビアには簡単に入国できないと聞きましたが?

 それが出来るようになりました。従来、サウジアラビアが発行するビザは、巡礼ビザと商用ビザしかなかったのですが、石油依存からの脱却を目指す現政権は、観光省を新設。観光振興のための「高等観光機構」も設置して、従来イスラム教徒に限って発行を許可していた観光ビザが、2019年9月からイスラム教徒以外でも申請が可能となりました。紅海沿岸でのダイビングや遺跡観光などで外国人観光客の誘致を目指していて、今後サウジアラビアと接触できる機会が増えそうです。

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