コートジボワール共和国
出典:外務省HP
1.フランス植民地から長期安定政権へ
コートジボワールは、フランス語で象牙海岸のことを指します。15世紀にはこの地方でポルトガルによる象牙の貿易が盛んに行われました。また、この地方は、多数の少数民族によって構成されていることでも有名で、その数は60にも達するといわれています。大別すると、17世紀末ごろにガーナから移住してきたアカン語族(バウレ族、アブロン族、アグニ族など)、コートジボワール西部からリベリア東部一帯に居住するクル語族(ティダ族、ベテ族、ゲレ族など)、マリ南部にかけて居住するマンデ語族(グロ族、グン族など)、そして主にブルキナファソを中心に居住するボルタ語族(セヌフォ族、クランゴ族など)の4語族が展開しています。
これらの民族の一部は、北部イスラム圏の影響を受けてイスラム化。またフランス植民地時代にはキリスト教が拡大しましたが、現在のイスラム人口は全体の30%、またキリスト教人口も同じく全体の30%で、残りの住民は土着の伝統宗教を信仰しています。
さて、コートジボワールはサハラを縦断する交易路の南端に位置。古くからアラブ世界との接触があり、内陸部にはオアシス沿いに交易都市が栄えました。19世紀に入るとフランスの西アフリカ植民地政策の一環として1843年には沿岸部が保護領化され、50年後の1893年には、内陸部の植民地化が完了。フランス領コートジボワールが誕生しました。1904年にはセネガル、モーリタニア、ギニア、ベニン、マリ、ブルキナファソ、ニジェールの7カ国とともにフランス領西アフリカとして再編成されます。
2.第一次コートジボワール内戦
第二次世界大戦後、独立運動が展開されたコートジボワールは、1958年にフランス共同体内の自治共和国に、また60年には完全独立国になりますが、その後の国家運営はウーフェ・ボワニ初代大統領のもとで、非常に安定的に行われました。ボワニ大統領は以後1993年に死去するまでの33年間、安定した長期政権を維持し続けてきたわけですが、この偉大な大統領の後を継いだコナン・ベディエ大統領は、1999年のクリスマスに起こったクーデターによって国外に亡命。代わってゲイ元参謀総長が政権を掌握しますが、2000年10月の大統領選挙によりゲイ政権が崩壊。バグボ大統領が政権を担いますが、このバグボ政権に対して、2002年9月、軍の一部(コートジボワール愛国運動)が反乱を起こし、第一次コートジボワール内戦が勃発。第一次内戦は西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の仲介で、翌2003年7月に停戦しますが、この内戦で新たな勢力(コートジボワール新勢力(FN))が台頭し、コートジボアールは新たな対立へと進みます。
政府とFN勢力との対立により、コートジボワールは2004年以降南北に分断。南アフリカや国連(国連コートジボワール活動(UNOCI))などの仲介による話し合いへの道もなかなか進まず、第二次内戦が勃発することになります。
3.第二次コートジボワール内戦
2010年10月、長い間延期されていた大統領選挙が行われますが、一回の投票では決まらず、現職のバグボ大統領とアラサン・ワタラ元首相の決戦投票になりました。結果ワタラ候補が現役のバグボ大統領を僅差で破ったのですが、それにバグボ大統領がケチをつけ、選挙に不正があったとして大統領宣誓式を行ってしまいます。
これに対してワタラ候補も国連平和維持部隊に守られながら就任宣誓を行い、コートジボワールは二重政府状態に陥ってしまいました。ちなみに、国連や欧米諸国はワタラ氏の当選を支持する声明を出しています。
これによって、コートジボワールはしばらく二重政府の状態が続きましたが、2011年4月、バグボ氏がワタラ側によって拘束され、以降、現在までワタラ政権が、比較的安定した政権運営を維持しています。