コンゴ民主共和国

出典:外務省HP

 コンゴ民主共和国の国名は、独立以来現在までに3回変更されています。1960年にベルギーから独立した当初の国名は「コンゴ共和国」。64年にはそれが「コンゴ民主共和国」となり、長期政権を担ったモブツ政権下の71年には、「ザイール共和国」に変更されて、さらには1997年に再びコンゴ民主共和国に改名。これだけでも、この国の歴史が波乱含みだったことが想像できるでしょう。ちなみに「コンゴ民主共和国」は、北西に国境を接する旧フランス領「コンゴ共和国」とは、歴史も成立過程もまったく別ですので、要注意です。国土面積アフリカ第三位、人口第四位のこの大国がたどった混乱の歴史を簡単に見てみましょう。

1.コンゴ紛争の歴史 

 14世紀に登場した「コンゴ王国」は、しばらく中央アフリカの強国として栄えましたが、16世紀にポルトガルが奴隷貿易を開始して以来、ヨーロッパ諸国の標的の一つとなり、次第に国力が衰退。19世紀の植民地分割競争時代には、とうとうベルギーの植民地になってしまいます。

 ベルギー国王は1885年、国王の私的な植民地として「コンゴ自由国」を建国しましたが、その国名とは裏腹に、比類のない暴政をしいたため国内外の非難を受け、1908年からは、統治権をベルギー政府に移管した「ベルギー領コンゴ」が発足します。しかし、1950年代後半に盛り上りを見せたアフリカ独立運動のさなか、ベルギー政府は、いとも簡単にコンゴの独立を承認。60年には、新生「コンゴ共和国」が誕生します。

 ところが、そのあとが大変でした。受入れ態勢が十分に整っていないところへ、いきなり独立が転がり込んで来たものですから、誰が権力を握るかで、もめにもめたコンゴは、独立後1週間足らずで内戦に突入してしまいます(コンゴ動乱)。結局62年末、国連の武力介入で戦闘は一応終結(コンゴ国連軍:ONUC)。64年には新政権が発足して、その時、国名も「コンゴ民主共和国」に改名されたわけですが、同年、国連多国籍軍が引き揚げると、またまた内戦が再燃します(第二次コンゴ動乱)。

 第二次動乱は、65年、政府軍側の勝利により終結しましたが、それもつかの間、政府内の対立が再燃し、政局が泥沼化していたところを、モブツ軍司令官が無血クーデターを起こして政権を掌握。ここでやっと政権が安定し、モブツ氏は以後97年に至るまでの長期政権を担うことになりました。

2.モブツ後をにらんだ権力闘争

モブツ大統領は、67年に新憲法を制定し、表面的には二大政党制を導入しましたが、結局自分が作った「革命人民運動(MPR)」以外の政党は認可せず、70年には、司法、行政、立法の三権すべてをMPRの機関とする、極度な一党独裁体制を確立。翌71年には、企業、土地の国有化、管理者層のザイール人化、地名・人名の現地語化などを含む「ザイール化政策」を強要。国名も「ザイール共和国」に改名されました。

 この強力な独裁が、政治的に混沌としたザイール情勢を安定に向かわせたことは否めません。しかしながら、モブツ氏の独裁に対する反発も当然強く、特に経済面での失策は、長く国民を困窮させることになります。87年には、コンゴ国民運動(MNC)を中心とする反モブツ13団体による亡命政権がジュネーブで結成されるなどの動きもありました。

 これらの反政府運動に対し、モブツ大統領は90年、憲法を改正し、複数政党制を導入。94年には、反モブツ勢力も参加する暫定議会が不完全ながら発足するなど、ザイールは徐々に安定化への道を歩んでいたはずでした。しかし、96年に起きた二つの「事件」によって、ザイール情勢は再び緊迫してくるのです。

 事件の一つは、96年8月、モブツ大統領がスイスで前立腺がんの手術を受け、その後、長らく政権を離れた療養生活を強いられた点です。ザイールの反体制組織は、「鬼のいぬまに洗濯」とばかり、この時期にモブツ打倒のための環境作りを推し進めていくのです。

 二つ目が、ザイール東部に国境を接するルワンダ、ブルンジ両国における政局の変化です。これらの国では、ツチ族対フツ族の抗争が続いていましたが、特に内戦でザイール東部地域に数百万の難民を出したルワンダでは、94年にツチ族政権が発足。このルワンダのツチ族政権が、ウガンダとともにザイールのツチ族系反政府組織を支援し出したのです。ルワンダにとっては、ザイール東部でツチ族のコントロールする地域が増えることは、自国のフツ族の動きを封じるためにもプラスだったわけです。また、ザイール東部、南部には、金・銀、ダイヤモンドや希少金属を産出する州が存在し、それに目をつけた欧米やイスラエル、南アフリカなどもツチ族主体の反政府勢力「コンゴ・ザイール解放民主勢力同盟」(ADFL)に対する関係を強化しました。

 各国の援助を受けたADFLは、96年10月、モブツ大統領の辞任と反モブツ派の暫定政権樹立を要求して蜂起。年末には政府軍をザイール東部から一掃してしまいます。勢いづいたADFL勢力は97年3月、ザイール第三の都市キサンガニを陥落。4月には南部諸州と、ザイール第二の都市ルブンバシを陥落して、首都キンシャサに向かいます。

 反政府軍のあまりにも迅速な侵攻に対してモブツ大統領側は手も足も出ません。4月と5月の二回にわたって南アフリカ主導で行われた和平交渉では、譲歩に譲歩を重ねたモブツ大統領ではありましたが、ADFL指導者のカビラ氏は、「大統領辞任」を強硬に主張。結局5月中旬に予定されていた第三回目の和平直接会談はキャンセルされ、ADFL軍の首都攻撃の可能性が高まったため、モブツ大統領は自ら政権を放棄し、5月16日モロッコに向けて亡命。ADFLは、首都キンシャサに無血入城して、紛争の幕が閉じられました。

 モブツ前大統領は、97年9月7日に亡命先のモロッコで死去。66歳の人生の半分を独裁国家の元首として君臨した人物の最期は、あまりにもさみしかったようです。

3.内戦再発

 モブツ大統領の32年間にわたる独裁に幕が引かれ、5月22日に正式発足した新政権では、ローラン・カビラADFL議長が国家元首に就任。国名も「コンゴ民主共和国」へと改名されました。先に述べたように、この国名は、モブツ政権以前の旧国名でしたから、国名が元に戻ったというほうがわかりやすいかもしれません。

 さて、この新政権は建て前上、暫定政権で、1999年4月の大統領選挙、議会選挙実施を目標に、徐々に民主主義的政治体制を整えていく予定でした。しかしながら、98年、同国東部地域で再び一部ツチ族が旧ザイール軍関係者と結んで武装蜂起したため、内戦が勃発。これにウガンダ、ルワンダなどが派兵して反政府勢力を支援。またジンバブエ、アンゴラ等がカビラ政権擁護のためにコンゴ民主共和国領内へ派兵したことにより国際紛争へ発展しました。

 1999年に一応停戦合意が成立したのですが、戦闘状態は続き、不安定な国内状況が続きました。2001年1月には、とうとうカビラ大統領が殺害され、息子のジョゼフ・カビラ将軍が大統領に就任。対立諸派との和平交渉が続きますが、エチオピア、ボツワナ、セネガルなど周辺諸国の仲介にもかかわらず交渉はなかなかまとまらず、最終的な和平合意が成立するのが2002年12月 、ムベキ南アフリカ大統領の仲介によるプレトリア包括和平合意を待たねばなりませんでした。

 和平合意を受け、2003年に暫定政府が生まれますが、国内全体を掌握するには時間がかかり、新憲法が発効して、大統領選挙と議会選挙が行われたのが3年後の2006年でした。この選挙でカビラ暫定大統領が正式な大統領に選出されたわけですが、国内の状況はますます混乱。2009年には毎月4万5千人が長引く戦乱と感染病、飢餓で命を失ったとされています。

 見かねた周辺諸国は国連による武力介入を支持。2013年、国連による平和執行部隊(FIB)が設置され、国連による本格的な介入が始まりました。

 2016年、任期の切れたカビラ大統領は退陣することも選挙を行おうともしなかったため国内は再び混乱。大統領選挙は2年ずれ込み、2018年末に行われましたが、立候補した3人が3人とも勝利宣言をするなどして混乱。結局2019年に選挙管理委員会が野党のフェリックス・チセケディ氏の勝利を宣言して現在に至っています。

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