コンゴ共和国

出典:外務省HP

1.コンゴ共和国は、コンゴ民主共和国と、もともと同じ国だったのですか?

 コンゴ共和国と、コンゴ民主共和国は、コンゴ川をはさんで西と東の国ですが、なぜ両方ともコンゴという名が付くかといえば、現在のコンゴ共和国、コンゴ民主共和国、そしてアンゴラ共和国の地域がコンゴ川地域の、 コンゴ族の根拠地になっていたためです。

 コンゴ族は14世紀から19世紀までここにコンゴ王国やロアンゴ王国という中央集権国家を築き上げましたが、15世紀末のポルトガルから始まる西欧列強のアフリカ進出に巻き込まれて王国は次第に弱体化していき、19世紀末、ついに王国はベルギーとポルトガルに分割される形で植民地化してしまいます。

 このとき、ベルギー側の植民地になったのが、現在のコンゴ民主共和国で、ポルトガルの植民地になったのが現在のコンゴ共和国だったわけです。

2.コンゴの歴史

 さて15世紀末、コンゴ共和国に最初に進出したポルトガルは、コンゴ国王と親密な関係を築き、コンゴ国王はキリスト教に改宗して西欧の文化を取り入れるなどしました。しかしその一方でポルトガルは奴隷貿易を行い、その結果就労人口が激減したコンゴでは、次第に生産性が低下して、国は衰退。支配力の弱まったポルトガルのすきをついて、1550年には北部がロアンゴ王国として独立。1882年まで独立を貫きます。

 そんな中、17世紀にはポルトガルにかわってフランスがコンゴに進出して奴隷と象牙の貿易を引き継ぎますが、18世紀のフランス革命以後、いったんフランス勢力はアフリカから身を引くことになります。

 フランス勢力が再びコンゴに進出するのは19世紀に入ってからのこと。19世紀のヨーロッパ諸国は、互いに競ってアフリカの分割を開始していましたが、コンゴ地域に進出した国はフランスとベルギーでした。フランスは、ピエール・ブラザを、現在のガボンとコンゴ共和国にまたがる地域に派遣。当時、ベルギー国王によってコンゴに派遣されたH.スタンリーと対立しつつ、コンゴ川をはさんで現在のコンゴ共和国の領土を確保しました。

 ブラザとスタンリーによって分割されたコンゴ王国の領土は、「列強によるアフリカ分割会議」と呼ばれるベルリン会議(1884-85)でそれぞれ正式に承認されることになります。

 フランスは1910年に、現在のチャド、ガボン、中央アフリカとコンゴを統合して「フランス領赤道アフリカ」を建国。ブラザビル(建国の祖「ブラザの街」という意味)を首都に定めました。しかし、フランスの植民地経営は、搾取につぐ搾取のために民衆の反発を生み、1920年代以降、各地で反乱が相次ぎました。

 このフランスの一方的な収奪は、フランス国内の社会運動家も刺激。特にアンドレ・マツワは黒人差別反対を唱えて盛んに反対活動を行いましたが1929年に弾圧されます。マツワの活動は、その後のコンゴ民族主義運動の精神的柱となっています。

 第二次世界大戦後、コンゴでは南部でコンゴ進歩党(PPC)、北部ではフランス社会党の系統となるアフリカ社会主義運動(MSA)が結成され、政党政治の幕開けとなった。1958年には南部の地方議会選挙でアフリカ人利益擁護民主同盟(UDDIA)が多数党となり、同年11月、UDDIAの党首ユールーがフランス共同体の自治共和国の首相として就任。1960年にはコンゴ共和国として完全独立を果たして、ユールーは初代大統領となります。

 このようにしてフランスの強い影響のもとで権力を得たユールー大統領は、次第に独裁的になり、63年には野党を禁止してUDDIAの一党独裁に移行したため国民の反感を買い、各地でデモやゼネストが発生しました。その結果、軍部の介入を受け、ユールーは大統領を辞任。代わって反仏、共産主義を旗印とする革命国民運動(MNR)の党首マサンバ・デバ政権が発足します。しかしこの左翼政権は長続きせず、68年には、政権内の内部分裂によりデバ政権は崩壊。代わってコンゴ労働党の党首ングアビが大統領になります。

 しかしこの政権も長続きせず、77年、ングアビ大統領の暗殺で幕を閉じます。代わって政権はヨンビ・オパンゴ大統領が就任しますが、この政権も2年余りで崩壊。79年にはサスヌゲソ大統領が就任して落ち着きを取り戻します。

 これら、初期の指導者たちに共通していたことは、それぞれ自分をサポートする政党を作り、武力によって他の政党を弾圧し、一党独裁を行ったことです。また、親仏、親西欧派だったユールー大統領を除いて、他の指導者たちは社会主義の信奉者だったということでした。特にングアビ大統領のコンゴ労働党(PCT)は、マルクス・レーニン主義を標榜する左翼政党で、1990年に一党独裁を放棄するまで、長年にわたりコンゴ共和国の政治を支配しました。社会主義国の中には、「人民共和国」という国名が多いのが特徴ですが、社会主義を貫くコンゴ労働党の独裁国家であるコンゴも1970年に、国名をコンゴ共和国からコンゴ人民共和国に変更。国名の上からも立派な社会主義国になったわけです。

3.コンゴのニンジャとは?

 さて、1969年から8年間の長期政権を担ったヌグアビ大統領が77年に暗殺されると、79年、サスヌゲソ氏が新大統領に就任。サスヌゲソ大統領は、マルクス・レーニン主義を掲げる従来のコンゴ労働党を軌道修正して、より資本主義に近い政体を整えます。また、一党独裁主義を放棄して、90年12月に複数政党制を導入。91年には国名をコンゴ共和国に戻し、社会主義の性格を払拭します。さらに、92年には複数政党制と議会2院制を国民投票で決定。同年に行われた大統領選挙に意気揚揚と臨んだサスヌゲソ大統領でしたが、選挙結果は「社会民主主義パンアフリカン連合」(UPADS)のリスバ委員長の勝利。あせったサスヌゲソ大統領は、第2回投票をボイコットして、こともあろうか武力に訴え、コンゴは内戦に突入するのです。

 この内戦は、隣国ガボンの仲介で収まり、UPADSのリスバ氏を大統領として承認する形で94年に停戦しますが、97年の大統領選挙でも、同じ惨劇が繰り返されます。今回はアンゴラ軍がサスヌゲソ派の助っ人として介入したため、リスバ大統領は国外に脱出。サスヌゲソが大統領就任式を行い、11月、「国民統一政府」を発足させました。

 ちなみに、サスヌゲソ派の武力組織は「コブラ」、コレラ前首相が率いる武力組織は「ニンジャ」、リスバ前大統領が率いる武力組織は「コヨーテ」と言われていたそうで、ごく最近まで、これらの民兵組織の解体を目指す政府との武装闘争が続いていました。

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