コロンビア共和国

出典:外務省HP

1.独立後のコロンビアの情勢を教えてください

 さて、エクアドルとベネズエラが分離独立したあとのコロンビアは、現在のコロンビアとパナマを含むヌエバ・グラナダ共和国として独立することになります。ベネズエラ、エクアドルが支配者、被支配者の対立関係で政情が終始不安定だったのに比べ、コロンビアでは、早くから二大政党制が確立して、150年間もその体制を守り続けてきました。1849年に確立した二大政党制では、一方で、主に大地主の利益と教会の権益を代表する保守党、その一方でコーヒーなどの生産、貿易を通じて勢力を広げた資本家層の権益を代表する自由党という明確な線引きが可能だったのですが、時を追うにしたがって、保守党、自由党双方の明確な支持基盤、および政策目標が交じり合い、どちらかというと、利益誘導型の政党政治になっていきました。

 また、政党政治が確立していたからといって、政情が常に安定していたとは限りませんでした。むしろ、1849年から80年まで政権を担った自由党のサンタンデル大統領と保守党の対立は激しく、19世紀中には、平均6年に1回の割合で内乱が起こっていました。また、80年に選出されたラファエル・ヌニェス第2代大統領は保守的な政策を推進し、それに対抗する自由主義者との間で99年、「1000日戦争」と呼ばれる内戦を引き起こし、10万人の死者を出したこともありました。このコロンビア内乱の隙をついたアメリカが、1903年、パナマを分離独立させ、パナマ運河の建設を開始するのです。

 さて、そんな中、コロンビアはその国名をグラナダ連邦共和国(1857年)、コロンビア合州国(1863年)と、めまぐるしく変更しますが、1886年に、現在につながる憲法の基礎ができ、国名もコロンビア共和国に落着きました。ヌニェス第2代大統領の時代には、コロンビアのコーヒー貿易も活発になり、20世紀初期には、保守政権のもとで安定した政体が1930年まで続きます。

 しかしながら、29年に起こった世界恐慌で世界の一次産品の価格が暴落。ほとんどコーヒーの輸出だけで生計を立ててきたコロンビア経済は、これで大打撃を受けます。混乱に陥ったコロンビアでは、保守党政権への批判が強まり、翌30年には自由党が1880年以来半世紀ぶりに復活して組閣することになりました。

 この自由党政権は1946年まで続きますが、そのあとに訪れたのが「ビオレンシア」と呼ばれる暴力と騒乱の時代でした。46年の大統領選挙で再び保守党に政権が移行したのをきっかけに自由党と保守党の対立が極度に緊張し、48年に自由党の指導者が暗殺されたことがきっかけとなって、自由党支持者が大挙して大統領官邸などを襲撃した「ボゴタ騒動」をはじめ、自由党支持者対保守党支持者の衝突は全国規模に展開されました。

 結局53年、事態の収拾のために軍部が介入し、ロハス将軍が大統領に就任しますが、支配階級からも労働者階級からも支持を得られずに辞任。一方、今まで反目し合って来た自由、保守両党は歩み寄り、58年に国民協定を結んで、4年ごとに「かわりばんこ」に両党から大統領を出すことなど決めて和解。この「国民戦線」体制のもと、コロンビアは58年から、再び落着きを取り戻しました。

 しかしながら、4年ごとに与党が入れ替わるこのシステムでは、選挙前にすでに議席やポストが決まっているわけで、どうしても馴れ合いになりがちですし、自由党、保守党のどちらかに入らないと、政治家になれないわけですから、実際、権力構造が固定化して、中央集権的になってしまいます。コロンビアでは、この「かわりばんこ」システムが74年に終わって、通常選挙が行われたのですが、この頃からさまざまな非合法活動が活発化してきており、コロンビア社会の不安定化につながっていきました。

2.コロンビアの麻薬やゲリラの問題はどうなりましたか?

 自由党と保守党の妥協の産物だった国民協定は1974年に解消されますが、その時点で、自由、保守両党以外の政党の政治参加への道が開けました。しかしながら、前述の通り、国民協定の中身の部分、すなわち、閣僚や行政府の人事枠、議員の議席などは、以後もこれら二大政党で暗黙に決めらるのが通常になっており、そのため、新規の政党が政治に参加する機会が著しく制限されています。

 そんな状況の中で出てきたのがさまざまなゲリラ組織でした。現在、コロンビアの左翼ゲリラは同国最大のコロンビア革命軍(FARC)と民族解放軍(ELN)の二大組織からなり、勢力1万5000人を数えると言われています。一方、5000人規模といわれる右翼民兵諸組織は「コロンビア統一自衛団」としてまとまっており、これら右翼勢力と左翼勢力の間の抗争やテロ事件が恒常的に続きました。

 99年1月には政府とコロンビア革命軍(FARC)との和平交渉が始まりましたが、2002年には右翼民兵がFARCに対して攻撃を仕掛けるなどして、結局、交渉は決裂。これらゲリラ組織が、コロンビア国営石油会社のパイプラインなどを爆破するなどして、コロンビア国内は内戦状態が続きました。

 2002年に就任したウリベ大統領は、和平路線を方向転換。国内のゲリラ組織と徹底的に戦う姿勢を明確にします。2008年には政府軍は、とうとう一線を越えてエクアドル国内にいるコロンビア革命軍(FARC)の掃討作戦を実行。国境を越えて空爆を繰り返しました。これに対してエクアドルのコレア大統領は猛然と抗議。コロンビアとの国交断絶に発展しました。

 これらゲリラ組織の最大の資金源が麻薬の密輸だといわれています。地下で動く、こうした非合法組織が、麻薬がらみで扱う金額は、コロンビアの総貿易額に匹敵するとさえ言われています。その麻薬組織の用心棒として活動していたのがコロンビア革命軍(FARC) だったわけですが、最大2万人といわれた勢力は、ウリベ大統領の強硬路線でその勢力をそぎ取られ弱体化。ウリベ大統領の後継者のサントス大統領の呼びかけに応じて和平交渉のテーブルに着きます。その功績をたたえてサントス大統領には1996年にノーベル平和賞が贈られたのですが、実際に戦闘が終結したかといえばそうでもなく、和平合意は合意と決裂を繰り返し、だらだらと時が過ぎて最終的な終結には至っていない状態です。2019年には元FARC のメンバーがゲリラ活動の再開を宣言するなど、予断を許さない状況が続いています。

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