コメコンとブレトンウッズ体制

ブレトンウッズ会議(1944)©UPI

 第二次世界大戦後、世界は共産主義圏自由主義圏とに分裂しました。それぞれ、経済思想も政治理念もまったく違い、お互い相容れない集団だったわけですが、かといってどちらか一方が他方をせん滅するということもなく、大体1950年代前半には、自由主義圏の属する国と共産主義圏に属する国が徐々に固まってきました。以後およそ50年間、両者はお互いにしのぎを削ってきたわけですが、両陣営とも直接戦争をすることはなく、互いににらみ合ったままでしたから、この時期を冷戦期と呼びます。冷戦期には世界の政治・経済がこれら二つの軸を中心に廻っていたので、その構造を二極構造と呼んだりします。

 さて、1991年12月21日にソ連が崩壊し、共産主義圏も崩壊したのですが、ロシア通貨危機など、社会経済システムが資本主義経済システムに移行する過程でさまざまな問題が出てきている昨今、一体、社会主義経済と資本主義経済のシステムがどのように違うのかを押さえておくのも重要でしょう。以下では、旧ソ連圏の経済システムと、自由主義圏の経済システムについて、簡単にまとめてみましょう。

1.コメコンとは、どういうシステムですか?

 共産圏側の経済システムは、1917年のロシア革命後に確立した社会主義経済体制が基本原理になっています。簡単に言うと、皆で手分けして働いて、あとで均等に分配しましょうというシステムです。すべての土地と生産手段が国有化され、中央政府が生産計画を立て、すべての国民の役割を決めて、計画通りに生産します。そして、出来上がった物は、全国民に需要に応じて均等に分配するわけです。例えば、「A共和国は、今年小麦をこれだけ生産するように、B共和国は、今年綿花をこれだけ生産するように」という計画を中央政府が立て、次に収穫された小麦や綿花は、計画にのっとって共産圏内の各国に分けます。これを計画経済と呼びます。

 このようなソ連内のシステムを、共産圏内でまとめてやろうとしたのがコメコンです。コメコンは、1949年に設立されたソ連と東欧諸国の経済協力機構で、正式名称は経済相互援助会議(CMEA)といいます(コメコンは西側の通称)。コメコンはソ連を中心として東欧諸国が団結して経済をまわしていくシステムで、具体的には産油国であるソ連が石油と天然ガスを東欧諸国に供給する代わりに、各共和国が、ソ連に対して、モノを供給するというシステムでした。しかしながら、加盟各国の経済状態と工業化の格差や生産力の伸び悩みなどで、コメコン域内の貿易は伸び悩み、徐々に計画通りの成果が挙げられないようになり、結局、コメコンはソ連崩壊の半年前の91年6月に解散することになりました。

 これに対して、自由主義圏側が確立した経済システムが「ブレトンウッズ体制」と呼ばれるものです。ブレトンウッズ体制は、現在でもさまざまな形でその基本理念が残っています。

2.ブレトンウッズ体制というのは、どのようなものですか?

 第二次世界大戦が終わった時点で、唯一無傷で残ったアメリカが、その後の自由主義経済圏を動かしていくことになりますが、当時のアメリカには二つの明確な目標がありました。一つは、戦争で荒廃したヨーロッパ諸国を復興して自由主義経済圏に取り込み、共産圏を封じ込めること。他の一つは、自由主義経済圏を経済的に安定させることです。

 そもそも、第二次世界大戦を誘発するきっかけを作ったのは、先進諸国の経済的エゴイズムでした。1929年の世界恐慌がもとで起こった経済的混乱に対処するため、先進諸国は、自国の産業の生き残りをかけ、競って極端な産業保護政策を進めました。このことが、相互の対立を生む結果につながったのです。第二次世界大戦後、そのような自国本位の経済政策はケンカのもとだから、国際経済をより自由で開放的なシステムに変革しましょうという動きがアメリカを中心に起こったのです。

 国際経済を、より自由で開放的なシステムに変革するという目標の実現のため、アメリカは、1944年、連合国の代表をブレトンウッズという村に集めて会議を開きます。会議に参加した人たちは、三つの主だった分野について話し合いました。一つは国際通貨・金融の問題、二つ目は経済協力の問題、そして三つ目は国際貿易の問題です。それぞれの分野で、戦後の世界経済のルールとなる重要な決定が下されました。

 まず、国際通貨・金融の分野では、(1)金本位制、(2)金・ドル兌換制、そして(3)固定相場制の導入が決定しました。

 第二次世界大戦中、世界を動かしていたヨーロッパは戦場になり、その経済は破綻の危機に瀕していました。戦後の荒廃で各国の通貨の信用は地に落ち、国境を越えた貿易など、したくてもできない状態でした。また、戦争のために生活必需品の品不足が続き、ドイツを初めヨーロッパ諸国ではいくらお金があっても物が買えない状態、つまり極端なインフレに陥っていたのです。例えばこんな時にフランス人がフランを持ってイギリスに買い物をしに行っても、イギリスではそのフランの価値が現在どのようなものであるかわからないため、フランを受けつける人はいません。逆もまたしかりです。

 このような状態では、とても自由で信頼のおける貿易など出来ませんから、各国は、通貨の信用を回復するために何らかの手を打たなければならなかったわけです。結局、戦後の世界で一番信用出来るのは純金、二番目は経済大国アメリカの通貨ドルだということで、「これからは純金でモノの価値を計ろう」ということになりました。これが金本位制というものです。

 しかし、実際買い物に行くたびに純金を持って行って、いちいち秤に掛けるのは面倒です。そこで、「1ドル紙幣を持っていれば、それと同じ価値の金と交換できますよ」という取り決めを行ったわけです。これを金・ドル兌換制と言います。これで、いちいち金を持ち歩かなくても、ドル札さえ持っていけば品物に交換してくれるようになるわけです。でも、これだけでは世界中がドルだらけになってしまいます。そこで、「1ドル札は、360円で交換できますよ」というように、米ドルと他国通貨との交換レートが定められました。この交換レートは、現在のように日によって変わることが無く、固定されていましたから、このシステムを固定相場制と呼びます。

 こうしたシステムを作っておけば、たとえ国がつぶれることがあっても、自分の持っているお金の価値が無くなることはないので、自信を持って自国のお金で物を売買出来るわけですし、自国通貨も相手国の通貨もドルと同様の信用があるということになれば、国際貿易も安心して出来ます。この国際的な通貨・金融システムを監視するために出来たのが、国際通貨基金(IMF)でした。

 次に、経済協力の話をしましょう。「国際経済を、より自由で開放的なシステムに変革」するためには、まず戦争で荒廃した世界経済の建て直しをしなければなりません。特にヨーロッパの復興は、共産主義の拡大を恐れるアメリカにとっても、最大の関心事でした。そこでアメリカを中心とする連合国は国際復興開発銀行(IBRD)、俗に言う世界銀行を設立して、ヨーロッパの経済復興を支援する体制を作りました。またそれとは別に、48年からはマーシャル・プランと呼ばれるアメリカ主導の欧州復興計画が実行されました。ヨーロッパ16カ国に130億ドル余りを寄付するという、この太っ腹な政策と、世界銀行スタッフの緻密な経済政策のおかげで、西ヨーロッパの経済は完全復活。農業、工業生産額は、たった5年で戦前を上回るレベルにまで回復しました。

 このように、国際通貨・金融の安定と経済協力の分野で、それぞれIMFと世界銀行という国際機関が設立されたわけですが、実は当初、それに加え、自由貿易の促進を管理するための機関として、国際貿易機構(ITO)が創設される予定でした。これは、主に自由貿易を阻害する関税障害を撤廃するための立法、監視の機関というふれこみでしたが、結局アメリカの議会の反対にあい、国際機構としては実現しませんでした。しかし、その中身の部分は、より拘束力の少ない一般協定として残ることになったわけです。これが「関税及び貿易に関する一般協定」すなわちガット(General Agreement on Tariffs and Trade)です(「GATTとWTO」参照)。

 第二次世界大戦後、アメリカのブレトンウッズ村に集まった各国の代表は、以上のような国際経済ルールを作り出しました。そして、この国際経済システムは、会議が行われた地名にちなんでブレトンウッズ体制、そしてこの会議で設立された国際機関はブレトンウッズ機関と呼ばれるようになったわけです。ブレトンウッズ体制の基本的な発想と目的の部分は1944年から現在までさほど変化がありませんが、その一方で国際経済が拡大し、その内容も複雑化するに連れ、ブレトンウッズ機関の役割は刻々と変化してきました。詳しくは「IMF(国際通貨基金)」、「世界銀行」及び「GATTとWTO」の項目で確認して下さい。

戻る