クウェート国
出典:外務省HP
1.クウェートの歴史を短く教えて下さい
クウェートは、もともとペルシャ湾内の海洋貿易の拠点として栄えた港町です。ただし、独立したことはなく、いつもどこかの国に属していました。国名も、現地語で「小さな砦」という意味ですから、まあ、あまり重要な感じも受けませんよね。事実、クウェートは石油が発見されるまでは、おそらく湾岸で最も貧しい国だったのです。
ですから、この港町に人が定着し始めたのもそんなに古いことではなく、18世紀の初めに遊牧民のグループが定住し始めたのが現在のクウェートの原型だったようです。現在のサバーハ家から首長を出す慣例が出来たのが1756年で、以後現在に至るまで、クウェートではサバーハ家(最近ではその分家のジャービル家)から首長が出る慣習が続いています。
さて、湾岸戦争の引き金ともなった出来事が1871年におこります。サバーハ家は、この年、正式にオスマントルコ帝国バスラ州の一部となることを承認したわけですが、このことがイラクのサダム・フセイン大統領に因縁をつけられるきっかけとなったわけです。つまり、「オスマントルコ解体後、バスラ州はイラクとなった。クウェートはバスラ州の一部である。つまりクウェートはイラクのものだ」という三段論法です。
実を言うと、この主張は別に新しいものではなく、イラクは事あるごとにクウェートの領有権を主張していたのですが、クウェートは、1899年にイギリスの保護領となり、また1914年にはイギリスの影響のもとに自治国となっていましたから、他のアラブ諸国や西欧諸国の干渉は受けなかったことも確かです。ただし、1961年にクウェートが独立してからは、しょっちゅうイラクの嫌がらせを受け、英軍が一時駐留するような自体も展開されました。1973年にはイラクが国境地帯を4年間も占領する事件が起こっています。このことを考えると、クウェートが現在存在することが出来るのは、クウェートに石油権益のあるイギリスとアメリカのおかげといっても過言ではありませんね。
さて、第一次世界大戦後にオスマントルコは解体しますが、そのとき現在のイラクの領土はイギリスの委任統治領となります。このとき、クウェートとの国境もイギリスによって引かれたわけですが、それは、イラクのペルシャ湾への出口にあたるワルバ島およびブビアン両島をクウェートのものにするという、イラクにとってはかなり不利な国境線でした。この時イギリスによって一方的に引かれた国境線が、イラクとクウェートの国境問題を再燃させたことは否定できません。
さて、この「小さな砦」が、世界最高水準のお金持ち国家となったきっかけは、1938年のブルガーン油田の発見でした。世界最大級のこの油田は第二次世界大戦後の1948年に生産が始まりましたが、3年後の1951年、イランが石油の国有化を始めた関係で、イラン原油に代わってクウェート原油が市場に出回り始め、クウェートの石油収入は飛躍的に高まっていくのです
2.湾岸戦争のきっかけは?
1980年から8年間に及んだイラン・イラク戦争によってイラク経済は疲弊します。イラクは唯一の産業である原油の輸出で一時は600億ドルにまで膨れ上がった膨大な債務を返済しようとしますが、当時の石油市場価格はバレル当たり15ドルと非常に低く、イラクはなかなか借金を返済できないでいました。
イラクは、OPECに原油生産を削減して市場価格を上昇させるように働きかけますが、誰も耳を貸さなかったばかりか、国によっては自国の生産枠を超えて生産を続け、結局それが原油の国際市場価格を押し下げているといった状況でした。その筆頭がサウジアラビア、UAEとクウェートだったのです。イラクは面白くありません。
さらには、クウェートとイラクの国境地帯には、ルメイラ油田という、両国にまたがって存在する油田がありますが、クウェートは、クウェート領内から斜めに掘ってイラク領内から原油を採掘し続けてきたとしてイラクのサダム・フセインは激怒。1990年にクウェートに軍事侵攻して湾岸戦争の口火が切られるのです。
1991年2月、多国籍軍の反撃でクウェートは解放され、現在に至るまで安定した国家運営を続けています。
ところで、湾岸戦争当時、日本はクウェートに対して1兆円を超える資金援助をしていたにもかかわらず、戦後にクウェート政府から出された感謝リストには日本の名前がありませんでした。これに対しては、当時日本の中でも残念がる声が多かったのを覚えていらっしゃる方もいるでしょう。しかし、東日本大震災後の北陸被災地に対して、クウェートは積極的に支援を行いました。三陸鉄道南リアス線の新車両(3両)の建造やアクアマリンふくしまの再建はクウェート政府からの支援で行われたものです。クウェートの名誉のために記します。