ギニアビサウ共和国

出典:外務省HP

1.独立までの歴史

 他の西アフリカ諸国の歴史と同様、ギニアビサウの沿岸部は、15世紀中ごろから奴隷貿易を営むポルトガルの支配を受けてきました。18世紀になるとフランスとイギリスが西アフリカ貿易の独占を狙ってポルトガルと競うようになりますが、1886年の協定でフランスは現在のギニア共和国を、ポルトガルはギニアビサウを、それぞれ支配することになります。支配することになったといっても、現地住民の抵抗運動は激しく、ポルトガルが完全にギニアビサウを掌握することになるのはそれから50年後の1936年になってからでした。

 ギニアビサウで独立運動が芽生えるのが、1956年のギニア・カボベルデ独立アフリカ人党(PAIGC)成立によってでした。当初、労働者運動として政治的に訴えかけを始めたPAIGCでしたが、これに対するポルトガル政府の弾圧はすさまじく、PAIGCは63年、武装闘争を開始。この植民地解放闘争は他のアフリカ諸国のみならず、広く同情を集め、73年にPAIGCが独立宣言を行うと、国連はそれを承認。74年、ポルトガルがそれを追認する形で闘争に終止符が打たれました。

2.独立後の混乱

 しかし、独立後のギニアビサウの政局は不安定を極めました。まずは、同じポルトガルの植民地支配から75年に独立したカボベルデ共和国との統合をめぐって、統合反対派がクーデターを起こし、そのリーダーであるヴィエイラ首相が大統領に就任。ヴィエイラ大統領は数々のクーデター未遂事件を乗り切って、89年に再選を果たし、90年から従来の一党独裁制を廃止して複数政党制導入を始めるなど、民主化に向けた作業を開始。ヴィエイラ大統領は94年に行われた、民主的大統領選挙で再選され、ギニアビサウの政局は安定的に推移しているかに見えました。

 ところが、98年6月、マネ前参謀長を中心とする一部軍人による反乱が発生。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の仲介で一時的に停戦・和平合意が成立しましたが、99年5月に戦闘が再開。ヴィエイラ大統領が亡命するという事件が発生しました。2000年の大統領選挙では、クンバ・ヤラ候補が当選しますが、2000年11月、ヤラ大統領支持派とマネ前参謀長支持派の兵士の間で砲撃戦が発生。98年のクーデターでヴィエイラ大統領を追いやったマネ前参謀長は政府軍に撃たれ死亡してしまいました。

 このように、ギニアビサウでは独立達成以来現在まで、政局的には不安定な日々が続いており、経済的にも世界最貧国の一つとなっています。

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