カンボジア王国
出典:外務省HP
1.祇園精舎はアンコール・ワット?
平家物語の導入部分で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というくだりがありますが、この祇園精舎、少なくとも江戸時代の一部の日本人は、この言葉を聞くとアンコール・ワット寺院のことを思い浮かべたのだそうです。特に17世紀には数多くの日本人がアンコール寺院を訪れました。なぜそれがわかるかというと、彼らは「この祇園精舎にたどり着こうと、苦労を重ねてやってきた」などといった意味の落書きを廊下の柱に書き残しているのです。日本人の落書き好きも、時には歴史的遺産となるものです(でも、今同じことをやったら犯罪ですから絶対にやめましょう)。
カンボジアは、9世紀始めから500年間、東南アジア最大の帝国でした。その栄華を創出したのが802年に成立したアンコール朝です。建国以後、数百年間にわたってインドシナ半島に大帝国を維持したアンコール朝は、文化的にもアンコール遺跡に代表される高度な文化水準を誇って、政治、文化の両側面で、かなり強烈な影響を周辺諸国にもたらしていたわけです。実際、14世紀以降急速に台頭したタイにしても、その基となる王国が出てきたのは、アンコール朝が衰退し始める13世紀から14世紀にかけてだったということからも、いかにアンコール朝が強大であったかがわかるかと思います。
しかし、諸行無常、盛者必衰。まさに平家物語の結末そのものの光景が14世紀に訪れます。ジャヤバルマン7世の治世に最高潮を迎えたアンコール朝は、その後不安定化し、たびたびタイのアユタヤ朝の攻撃を受けるようになります。国力は急激に衰退し、1432年にはついに王都アンコールが陥落して、74年には、アユタヤ朝の属国となってしまいます。18世紀末には北部をアユタヤ朝に併合されてしまいますが、これに対抗するためにベトナム勢力を招いたのが運の尽き。逆に1841年には、ベトナム(グエン朝)にメコン川下流地域を取られてしまいます。
カンボジアは、国内で困ったことがあるとすぐにベトナムに助けを求める傾向があります。最近では1978年、ポル・ポト政権に対抗するためにベトナムの助けを借りたまでは良かったのですが、このあとで、国内に居座るベトナム勢力を追い出すのに一苦労しました。基本的にカンボジアとベトナムの関係は良いのですが、あまり頼りすぎるのも考えもののようです。
2.フランス植民地時代から独立までの経緯を教えてください
カンボジアがフランスの保護領になったのは1863年ですが、その前年、メコン・デルタ地帯、つまり1841年にベトナムに取られた土地が「フランス領コーチシナ」となっていました。ですから、海への出口を抑えられたカンボジアとしては、フランスの保護条約に署名せざるを得ない状況にあったことは確かです。84年にはフランスの権限を強化した新条約に調印させられますが、農民に重税をかけて、その税金をフランスが運営する公共事業に回し、しかも肥沃な土地はフランス人に払い下げるという、いかにも屈辱的な条約に腹を立てた国民が各地で蜂起します。しかし、力の差は歴然としており、結局、フランスはベトナムとカンボジアを「フランス領インドシナ」として1887年に植民地化してしまいます。
フランスの統治政策はラオスでもベトナムでもカンボジアでも非常に評判が悪く、基本的に統治する国から金を取ることはしましたが、産業の振興や人材の育成などにはまったく手がつけられませんでした。
第二次世界大戦中、フランス領インドシナは日本に占領されますが、占領にあたって日本は、戦後の独立を約束し、そして、日本敗戦直前の1945年3月には日本の後押しを受けたシアヌーク国王が独立を宣言することで、その約束を果たしました。しかし、日本敗戦後現地に戻ったフランスは、その独立宣言を無効にして、あくまでもフランス統治を貫き通し、カンボジアには一定の自治を与えたに過ぎませんでした。
そこでシアヌーク国王は一発奮起。52年に合法的に全権を掌握して、独立の意思を世界にアピールしたのです。国際世論の同情を勝ち取ったシアヌーク国王は、フランスからさまざまな譲歩を引き出し、ついに53年にカンボジア王国として完全独立を達成するのです。
3.クメール・ルージュとはどんな組織ですか?
1953年にフランスからの独立を達成したシアヌーク国王は、55年、自ら退位して「人民 社会主義共同体(サンクム)」の総裁となり、同年の総選挙で100%の議席を獲得して、王政社会主義を目指す改革を進めました。しかし、経済政策の失敗からサンクム内に亀裂が生じ、徐々に中国寄りのシアヌーク派と、アメリカ寄りのロン・ノル派が次第に対立するようになります。隣国ベトナムでは60年代から約15年間、アメリカを巻き込んだベトナム戦争が展開されますが、周辺国に親米政権を樹立することを画策したアメリカは、カンボジア右派のロン・ノル氏と手を組みます。このことが、カンボジアの内戦を誘発するきっかけとなるのです。アメリカの後押しをもらって勢いづいたロン・ノル氏は、70年にシアヌーク氏を追放。しばらく、ロン・ノル政権が続きます。
しかしながら、ベトナム戦争で疲弊したアメリカ軍が、75年にベトナムから撤退すると、後ろ盾を失ったロン・ノル政権は内部崩壊。ここで一斉蜂起したのがポル・ポト派でした。
ポル・ポト(本名サロト・サル)の生家は、実は裕福な地主の家で、親戚には国王の側近や、宮内庁役人などがおり、宮廷に近い家柄でした。49年にはポル・ポト自身もパリに国費留学していたことからしても、いかにも良家の坊ちゃんという感があります。
しかし、彼の性格を変えたのがパリでした。1920年代にパリ留学していた周恩来、鄧小平両氏が、コミンテルン(1919年にレーニンによって結成された国際共産組織)の影響を受け、中国共産党の指導者となっていったように、47年に結成されたコミンフォルム(ソ連、東欧6カ国とフランス、イタリアの共産主義者が結成した組織)の影響をもろに受けたのがポル・ポトでした。
1949年から53年までパリに在学した彼は、第二次世界大戦後のヨーロッパにおける共産主義再構築の流れに乗るように、次第に熱心な活動を展開するようになり、留学を打ち切られた53年には、フランス共産党の党員として地下活動に携わっているほどでした。
同年帰国したポル・ポトは、理想的共産主義をカンボジアで実践すべく、次第になりふり構わぬ活動を展開していくようになります。彼の信念は、ヒトよりも国家の形態でした。つまり、理想の共産主義社会を実現するためには、犠牲は黙認するというものだったようです。その理想実現のためには時に同胞の共産党員を殺害することさえありました。実際、60年にプノンペンの共産党書記に任命されたポル・ポトは、62年には最高権力者である党書記長を暗殺。翌63年に自ら党書記長に就任すると、義弟のイエン・サリとともに、武装闘争路線を目指し、クメール・ルージュ(赤いクメール*=ポル・ポト派)として地下活動を始めるのです。
さて、ポル・ポト派にとって最大のチャンスが1975年に訪れました。前述した通り、ベトナム戦争で疲弊したアメリカ軍が75年にベトナムから撤退し、後ろ盾を失った親米のロン・ノル政権が内部崩壊したのです。ポル・ポト派武装勢力は、ここぞとばかり内部分裂したロン・ノル政権を駆逐して、瞬く間にカンボジア全土を掌握。76年に「民主カンプチア」政権を樹立すると、そこで、かねてから懸案の理想的な共産主義社会の実現を目指して、無茶で強硬な改革を実行に移しました。
まず、200万人以上といわれる市民を、首都プノンペンをはじめとする都市部から強制的に農村部に移住させ、新たに設置した生産拠点で強制労働に従事させました。移動の自由も私的生活も剥奪された労働者は24時間徹底的に監視され、また思想統制の目的で、一切の自由教育活動、宗教活動も禁止されました。また、富裕層は徹底的に排除され、一切の文明の利器が破壊されました。十代の若い党員によって「共産主義に反逆する人間」と認定された人は、容赦無く殺害されていきました。
当時、ポル・ポトは「理想的共産社会実現のためには人口が8分の1になっても構わない」と豪語したと伝えられており、結果、100万人を超える、主に男性の国民が死に追いやられたのです。結果、現在カンボジアでは、人口の64%が女性。また既婚女性の半分が未亡人という極めて変則的な人口形態となっています。
4.ヘン・サムリン政権というのは何ですか?
このような残忍な政権が長続きするはずがありません。カンボジアの一部の指導者は、隣国ベトナムの力を借りて、ポル・ポト政権を打倒する作戦に出たのです。こうして78年12月、10万のベトナム軍がカンボジアに侵攻。数週間でポル・ポト政権を打倒し、79年1月には親ベトナム派のヘン・サムリンという人物を中心とする政権(プノンペン政権)を樹立します。ということで、カンボジアは以後10年間、ベトナムの間接支配下に入るのです。
さて、それからが大変です。当時のベトナムは、アメリカとの戦争に勝って、意気揚々と共産主義の旗印を掲げていたわけですが、もちろんバックにはソ連がついています。アメリカは、ベトナムを失った後でカンボジアも失っては大変と、ヘン・サムリン政権の打倒とベトナム軍のカンボジア撤退を模索しますが、ベトナム戦争直後で、あまり大きな行動がとれません。このすきをついて出てきたのが中国です。
当時の中国も、もちろん共産主義を掲げていましたが、ソ連との仲が極端に悪く、ソ連と友達関係にあるベトナムも敵国扱いしていました。そこで中国は、ベトナム勢力をカンボジアから追い出すことで、カンボジアに恩を売り、東南アジアにおける影響力を高めようとしていたのです。
ということで、中国は、カンボジアで唯一抵抗力のあるポル・ポト派を支援することに決定。タイ経由で軍事援助を開始します。このポル・ポト=中国連合に、シアヌーク派など、反ベトナム勢力が合同し(三派連合政府)、ヘン・サムリン政権(=ベトナム=ソ連)打倒を目標に、過酷な内戦に突入するのです。
5.カンボジアの和平が達成されたいきさつを教えてください
このように、国際政治の影響をもろに受けたカンボジア紛争でしたが、和平への道も、同じく国際政治情勢の変化がきっかけとなりました。1985年のゴルバチョフソ連大統領就任を契機に、中ソ間の緊張が緩和し、それと連動するように87年、カンボジアでも対立する政権の直接対話が始まったのです。
その結果89年には、ベトナム軍のカンボジア撤退が完了。90年には、念願の停戦が実現します。91年のパリ国際会議では、カンボジアの対立諸派が参加する最高国民評議会(SNC)をつくること、また国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が停戦と93年の選挙監視を行なうことで合意。93年に行なわれた、カンボジアで初めての選挙は予想外に投票率も高く公正な選挙になりました。
しかしながら、選挙の結果は微妙でした。フンシンペック(FUNCINPEC-もと反ベトナム勢力)が58議席、人民党(CPP-もと親ベトナム派)が51議席獲得と、国論が二分してしまったのです。そこで登場したのが、シアヌーク氏。彼の指導で対立する両党の党首は、2人とも「共同首相」になることで決着。フンシンペック党のラナリット殿下が第一首相、人民党のフン・セン氏が、第二首相に選出されました。こうして、シアヌークを再び国王に戴く、新生「カンボジア王国」が、1993年の7月に誕生したわけです。
以来、カンボジアの国内情勢は、一応安定軌道に乗ったものの、和平を拒否したポル・ポト派に対する武力闘争で、国費の半分を軍事費に費やし、財政は破綻状態が続きました。それに加えて連立政権内の小競り合いも絶えませんでした。しかし96年に入るとポル・ポト派の相次ぐ投降という明るいニュースが飛び込んできました。93年の選挙をボイコットし、親ベトナム勢力に対する徹底抗戦を訴えたポル・ポト派ではありましたが、カンボジアの内政が安定化すると、ポル・ポトをサポートする住民の数も次第に減っていきます。平和な世の中では、銃よりも生活のほうが大事だからです。かつて3万人もいた兵力も、カンボジア王国建国後は、その1割にまで落ち込んでしまいました。このような状況の下で96年8月、ポル・ポト派ナンバー2のイエン・サリ一派が大量投降し、これでポル・ポト派の解体が一気に加速するのです。そして97年6月には、とうとうポル・ポト自身の身柄が、ポル・ポト派の兵士によって拘束され、ポル・ポト派の人民裁判によって終身刑を宣告されるという摩訶不思議な事態に発展しました。
98年4月13日、ポル・ポト派最後の拠点といわれるアンルンベンが陥落。ポル・ポトは、自派の最期の日を見届けた3日後の16日に、「心筋梗塞」で死去。未だに謎の多い大量虐殺の歴史をひも解く鍵は、永遠に失われてしまいました。
いずれにせよ、このポル・ポト派の解体で、カンボジア情勢は一層安定化に向かうというのが大方の見方でしたが、これらの旧ポル・ポト派勢力を、現存の政治勢力が取り込む過程で、意外な落とし穴が待ち構えていたのです。
6.フン・セン第二首相とラナリット第一首相は、なぜ対立したのですか?
パリ和平協定以前は、互いに敵同士だったラナリット第一首相と、フン・セン第二首相は、国連主導で行なわれた1993年の総選挙後、まずまず仲良くやっていたのですが、98年に予定されている第二回目の総選挙を目前に控えて、徐々になりふり構わぬ権力争いを展開するようになりました。
特に、軍事的後押しのなかったフンシンペック党のラナリット第一首相は、97年に入ると権力拡大のため、積極的にポル・ポト派に接近。投降したイエン・サリ氏や、キュー・サムファン氏を含む武装勢力の取り込みを画策していました。
対するフン・セン第二首相は、武装解除を前提としてポル・ポト派に恩赦を与えることに、当初理解を示していましたが、勢力拡大に躍起となったラナリット第一首相が、ポル・ポト派の武装解除はおろか、逆に彼らを取り込み、武器の輸入などで兵力の増強を図っていることに大いに不満を表明。両首相の仲が極端に悪化します。
97年4月には両首相が公の場で双方を互いに非難し合うようになり、このため国会も中断していました。5月には、ラナリット第一首相が、反フン・セン派政治家との会合のためフランスに向けて出国。諦めきったシアヌーク国王も、病気を理由に北京で療養生活を決め込み、なかなか政治の表舞台に出てこようとしません。
いやなムードが漂っていたところ、やはりというべきか、6月18日、第一首相派と第二首相派の部隊が銃撃戦を開始。事態は2時間で収拾したものの、極度の緊張関係はその後も続き、とうとう対立は7月の首都プノンペンでの攻防戦につながっていきました。結果、ラナリット第一首相派の武装勢力は撃破されたのですが、ラナリット第一首相が国外追放された以外は現状が維持され、一時国外脱出した反フン・セン派の議員もカンボジアに戻ることを許され、最終的にはラナリット第一首相も参加する選挙が98年に実現することになりました。
7.1998年の選挙結果はどうなりましたか?
1998年、カンボジア王国が自らの手で行なった初めての民主選挙は、フン・セン第二首相率いる人民党(CPP)、ラナリット第一首相率いる民族統一戦線(フンシンペック)と、サム・ランシー前財政経済相率いるサム・ランシー党との三つ巴の戦いになりましたが、結果はフン・セン氏の人民党が過半数の議席を獲得。対するラナリット氏のフンシンペックは、議席を15席減らし、都市を中心に議席を伸ばしたサム・ランシー党は、結局15議席に止まりました。
選挙は、欧米及び日本などからなる国際選挙監視委員が選挙準備、投票、開票をすべて監視するシステムを取りましたが、これら国際選挙監視委員の選挙後の判断は、「選挙は自由かつ公正なものだった」ということでした。投票率も前回の89.6%を上回る93.7%となり、ほとんどの民意を反映した選挙だったといえるでしょう。選挙結果について、負けた側のラナリット氏、サム・ランシー氏などが、選挙を不正として4カ月も新政権の樹立を拒むという行動に出ましたが、結局はラナリット氏が新設された上院の議長として政権に参加することになり、カンボジアの政治状況は安定的に推移しました。この選挙結果と政治状況の安定を受けて、99年4月30日カンボジアのASEAN正式加盟が承認され、待ちに待ったASEAN10が起動する運びとなりました。
8.カンボジアの現状は?
カンボジア王国の行政機構は98年の選挙後改編され、首相が率いる王国政府と国民議会が並立するシステムとなりました。また、議会には従来の国民議会(下院:National Assembly)とともに上院(Senate)が新しく設置され、二院制となりました。形態としては、連邦政府と上院(Senate)、下院(Congress)が存在するアメリカのシステムに近いのですが、カンボジアの場合、首相の権限が強いことと、「君臨すれど統治しない」国王が存在する立憲君主制である点が違うところでしょう。
特に、新設された上院は、ラナリット氏のためにつくったポストという感じが強く、実質的にはフン・セン首相のリーダーシップが発揮されるシステムといえます。実際フン・セン首相はその後に開催されたすべての総選挙を勝ち抜き、2018年からは第六次政権を安定的に運営しています。またシアヌーク国王は2004年に息子のシハムニ皇太子に生前譲位。御自身は2012年に滞在先の北京で逝去されました。