カザフスタン共和国
出典:外務省HP
中央アジア最大の国は、何といってもカザフスタン共和国です。面積271.7万平方キロメートルは、他の中央アジア諸国の面積を全部足しても、その2倍以上。日本の7倍はあるという広さです。人口のほうは6分の1の面積しかないウズベキスタンの7割ですが、そのかわり1人当たりのGDPは中央アジア諸国の中で堂々の1位に輝いています。
それもそのはず。カザフスタンは、旧ソ連全体の耕地面積の2割を占める豊かな穀倉地帯に恵まれており、さらには地下資源も、石炭、石油、天然ガスのほか、銅、鉛、亜鉛の埋蔵量は、旧ソ連全体の半分を占めるほど豊富です。ソ連時代は、この豊富な地下資源のおかげで工業が発展し、1991年12月独立後も、ロシア連邦とは緊密な関係を維持しています。
1.カザフスタンの歴史と独立までの経緯を教えてください。
カザフスタンの歴史は、15世紀後半にできた遊牧民族国家カザフ・ハーン国にさかのぼりますが、18世紀に国家が三つの部族連合に分裂してからは、次第に近隣ロシアの支配下に組み込まれていくようになります。
帝政ロシア時代には、西からウラリスク州、トルガイ州、アクモリンスク州、セミパラチンスク州という四つの州に分割されて統治されていましたが、ロシア共産革命で帝政ロシアが倒れてからは、一時キルギス自治共和国(20~24年)の名称で統治されていました。この名称は、キルギスタンと似ていますが、二者は場所も民族もまったく違います。どうやら、中央アジアに不慣れな共産党員がカザフスタンとキルギスタンとを勘違いして命名したようです。日本のことを中国と命名して統治するようなものですから、不見識もはなはだしいのですが、間違った名前をつけられたほうも、文句を言わなかったところが、遊牧民族のおおらかさでしょうか。
ということで、ソ連によって中央アジアの境界線が引かれた1925年には、キルギスの名前を返上して再びカザフ自治共和国となり、36年にはカザフ共和国に昇格しました。
さて、カザフスタンの特色は、人口の42%を占めるカザフ人の他に、ロシア人が37%もいることです。またウクライナ人が90万人、ドイツ人が約80万人いるということも驚きです。このような人口構成になったのは、実は深いわけがあります。
まず、ロシア人の多さは簡単に説明できます。前の章で書いたとおり、中央アジアは18世紀から徐々にロシアの支配下に入っていったわけですが、最初にロシアの支配下に入ったのがロシアと国境を接するカザフスタン西部だったわけです。19世紀になるとロシアとシベリアからコサックとロシア人農民が次々と入植しており、この時期に少数のウクライナ人も開拓者として移住したということです。第一次世界大戦直前には、カザフスタン東北部の約4割が、すでにロシア人だったという統計があります。
しかしドイツ人が79万人もいるということはどうでしょう?もちろん、19世紀の中央アジアへの開拓者の波の中に少数のドイツ人が含まれていたことはいたそうですが、実は、これらドイツ移民の歴史はもっと浅いのです。
第二次世界大戦中の1941年、ナチスドイツはソ連へ侵攻しますが、その年、ソ連領内にいたドイツ人が敵としてシベリアや中央アジアに強制移住させられたのです。また戦後にも、黒海沿岸などソ連軍が奪回した土地に住むドイツ人が同様に強制移住させられ、中央アジアその他での労働を強いられたということです。つまり、現在カザフスタンにいるドイツ人は、第二次世界大戦の犠牲者ということができます。ちなみに、カザフスタン以外にも35万人のドイツ人が中央アジア諸国に散らばっているということです。
さて、厄介なのは、これらドイツ人の中でドイツ語を話せる人はほとんどいなくなってしまっているということです。一応1970年代からドイツへの移住が細々と続いており、特にペレストロイカ(1985年に始まったゴルバチョフ政権の改革政策)以降はドイツ本国へ戻る人が増えているそうですが、言葉を忘れた戦争の犠牲者に明るい材料は少ないようです。
2.カザフスタンの政治の状況を教えてください。
1991年12月にカザフスタン共和国として独立して以後、複雑な民族構成を持つこの国はそれなりに安定した政権を保っています。もちろん、ロシア人対カザフ人という基本的な問題は存在していますが、1994年、複数政党制による選挙で選出された「カザフスタン国民統一同盟党」のナザルバエフ大統領が、95年、98年の憲法改正で大統領の任期が再延長され、結局ナザルバエフ大統領は自ら辞任を表明した2019年まで大統領として安定的に政権運営にあたりました。
95年の憲法改正ではソ連時代の最高会議が廃止され、二院制を採用した新憲法を制定。同年12月には両院選挙が実施されるなど、官主導型の民主化を着々と進めてきました。98年の5月には、首都の名前を「白い墓地」を意味するアクモラから遷都、「首都」を意味するアスタナに変更。2019年には首都の名前を、ナザルバエフ大統領のファーストネームにちなんでヌルスルタンと変更しています。ちなみにこれまでカザフスタンの首都の名前が変更されたのは5回です。結構頻繁に変わっているんですね。
外交面では、98年の7月、キルギスタン、ロシア、タジキスタンとともに、中国との国境緊張の緩和、兵力削減などで合意。また、中国との間で未確定だった120キロの国境線が確定されました。これで東部国境地帯の安定化が実現したわけです。
3.カスピ海は湖?それとも海?
カスピ海の海底油田は90年代初期に発見されたばかりですが、全体の推定埋蔵量は800億から2000億バーレルとされ、中東産油国を除けば世界最大の油田ということで、世界中の注目を集めました。ちなみにカスピ海周辺国では、アゼルバイジャンが国際資本(英ブリティッシュ・ペトロリアムや伊藤忠石油開発社など)を導入して1994年に開発を開始していました。
これを見たロシアは、「カスピ海は湖だから、その資源は共同管理すべきだ」と主張。国際海洋法では、湖の周辺国は、その湖の資源を共同管理しなくてはいけないと規定されているのです。これに対してアゼルバイジャン、トルクメニスタンが反発。カスピ海は「海」であると主張。国際海洋法では、各国が海に自国の領海を設定できますから、油田があると分かっていた両国は、その方が都合がよかったのです。
さて、そうこうしているうち、ロシア、カザフスタン沖の北カスピ海でも石油が出るということが96年にわかりました。すると両国は「やっぱりカスピ海は海だよね」という考えに変わって、98年、北カスピ海の地下資源の分割協定に調印。それぞれ岸から等間隔に線を引いて、その地下資源の所属を明確にしたわけです。従来「カスピ海は海」と主張してきたアゼルバイジャン、トルクメニスタン、イランの3カ国も、もちろん同意。これにて、カスピ海は立派な海になったということです。カスピ海北部では2016年、新たにカシャガン油田が生産を開始。カザフスタンの経済発展に寄与しています。
カザフスタンは、ロシアとの友好関係を保ちつつ、欧米諸国やアジア諸国との関係も良好で、中国とは上海協力機構(SCO)のメンバー国として経済関係を強めています。さらにはトルコ諸語を公用語とする国で構成されるテュルク評議会のメンバー国であるということから、イスラム世界における信頼度も高く、シリア内戦の調停など様々な国際会議がカザフスタンを舞台に繰り広げられるシーンも多くなってきました。