エリトリア国

出典:外務省HP

 エリトリアは、エチオピアの北部の紅海沿岸地域で、エチオピア唯一の沿岸地域ですが、1880年代に紅海方面に進出してきたイタリアに占領され、1890年にイタリアの植民地となります。イタリアはエリトリアを足掛かりにしてエチオピアに進出。1936年にエチオピアを併合しますが、第二次世界大戦中、イタリアの勢力を退けたイギリスが1942年にエリトリアを保護領として52年までの10年間占領します。52年にはエチオピアの独立要求が通る形で、エチオピアとエリトリアの連邦制が国連決議により実現。これに力を得たエチオピアは62年、「エリトリア議会の決議」という形で、事実上エリトリアをエチオピアの1州として併合します。

 しかし、あくまでもエリトリアの独立を主張する一派は、58年にエリトリア解放戦線(ELF)を結成。61年から武装解放闘争を開始します。10年後の71年にはELF から分離したエリトリア人民解放戦線(EPLF)が主導権を握り、独立運動を継続することになります。

 さてそんな中、エチオピアは74年のクーデターで王制が廃止され、社会主義を唱える革命軍事政権が成立(エチオピア革命)しますが、同時にこの軍事政権の恐怖政治に反対する反政府解放組織の動きが活発になります。エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、これらエチオピア内の反政府組織と共闘することになります。軍事政権打倒には、27年の月日が必要となりましたが、冷戦の終結により、エチオピアに対するソ連、キューバの軍事的支援が失われると、軍事政権の抵抗力は著しく低下。エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を中心とする反政府勢力はこれを絶好の機会と考え、91年5月軍事攻勢を本格化。メンギスツ軍事政権を崩壊に追いやりました。

 このとき、EPRDF のメレス・ゼナウィ議長を暫定大統領とするエチオピア新政府が、共闘したエリトリア人民解放戦線(EPLF)に対するご褒美として、93年にエリトリアの将来を国民投票で決定する権利を約束したわけです。住民投票は約束どおり果たされ、国連の監視のもと、圧倒的な支持(99.8%)でエリトリア独立が平和的に決定しました。

 このように、エチオピアとエリトリアは、紛れもなく同じ目的をもって戦った仲間でしたから、よもや5年後に紛争が始まるとはだれも予想できませんでした。しかしながら、エリトリアは、周辺諸国とのいざこざが絶えない国であることも確かです。95年には紅海上のハニシュ諸島をめぐるイエメンと領土紛争が始まり、ジブチとは96年に国境付近で軍事衝突が起きていますから、エチオピアとの紛争も「新興国の国境を固めるための紛争」として説明できるかもしれません。ただし、エリトリアの独自通貨であるナクファを決済通貨として認めないとするエチオピア政府の態度や、アッサブ港の使用料をめぐって両国間に摩擦があったことも確かです。

 98年5月には、両国の国境上にあるイイグラ三角地帯の帰属をめぐって武装闘争が発生。首都空爆の応酬なども含め戦闘は大規模となり、2年間で数万人の死傷者と100万人を越す難民を出したといわれています。2000年12月には両国間で和平合意がなされましたが、その後も戦闘は継続。2008年には国連PKO(UNMEE)も撤退してしまいます。

 2018年、エリトリアのイサイアス大統領がエチオピアのアビィ首相が20年ぶりの首脳会談を行って戦争状態を終結することで合意しましたが、平和な状態が長く続けばと心から願います。 

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