エチオピア連邦民主共和国

出典:外務省HP

1.アフリカの大日本帝国

 エチオピアは、13世紀のソロモン朝以降に全土が統一され、1974年に帝政が終結するまでの700年間、東アフリカに強大な帝国を維持しました。特に、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進んだ19世紀末、エチオピア帝国も二度にわたるイタリアの侵攻を受けましたが、1896年、「アドワの戦い」で勝利。イタリアを退けます。(第一次エチオピア戦争)アフリカ諸国がヨーロッパ列強の支配に入る中で、それを力で乗り切って独立を維持したことは特筆すべき事件だと思います。

 列強によるアフリカ分割で独立を保ったもう一つの国家がリベリアでしたが、こちらはアメリカの影響が色濃い国で、アメリカの一部に組み込まれて独立を保っていたことを考えると、一国だけでヨーロッパの強国イタリアに武力で勝利を収めて独立を保ったことは驚くべきことでした。1930年に即位したセラシエ1世は、エチオピア初の憲法を制定しましたが、その際に参考にしたのが同じく列強の影響から独立を保ったアジアの国、日本だったことはよく知られています。

2.第二次エチオピア戦争と植民地化

 しかし、初の憲法を制定して、改めて皇帝の座に就いたセラシエ1世を試練が襲います。当時ファシスト・イタリア王国を率いたムッソリーニは、イタリア国内の人口増加を軽減するために東アフリカ帝国を建国して過剰人口を移住させるという計画を立てて、1935年にエチオピアに侵攻します。これに対してエチオピア軍はよく戦いましたが、1936年にイタリア軍が毒ガスを使用したため、壊滅的な被害を受け、皇帝セラシエ1世はロンドンに亡命。以後1941年までエチオピアは「イタリア領東アフリカ」というイタリアの植民地に編入されてしまいました。

3.ソロモン朝復活から帝政廃止まで

 第二次世界大戦が勃発すると、イギリスは東アフリカのイタリア勢力を一掃するために派兵して勝利をおさめます。そしてロンドンに亡命していたセラシエ1世は1941年に首都アディスアベバに凱旋。ソロモン朝エチオピアは見事な復活を遂げました。

 1952年にはイギリスの保護領だったエリトリアとともに、エチオピア・エリトリア連邦として再出発したエチオピアでしたが、第二次世界大戦後の冷戦下で、次第に軍部がソ連の影響を受けるようになります。セラシエ1世は1974年、軍部のクーデターによって退位。700年以上続いたソロモン朝は終焉を迎えました。

 1975年末には軍の暫定政権が社会主義国家の建設を宣言。ソ連の影響を受けた軍政が続きますが国内は安定しません。1977年に臨時代表となったメンギスツは、力で反対勢力をねじ伏せようとして粛清と弾圧を繰り返し(エチオピア内戦)、1987年にはエチオピア人民民主共和国の建国を宣言して自ら大統領に就任しますが内乱は収まるどころかますます拡大していきました。1991年、エリトリアの独立を目指す勢力がエチオピア国内の反政府勢力と手を組んで首都アディスアベバに侵攻。政権は崩壊して、メンギスツはジンバブエに亡命しました。1995年には新憲法が成立し、ネガソ大統領が就任。現在につながるエチオピア連邦民主共和国が発足しました。 

4.エチオピア・エルトリア国境紛争

 エチオピアの軍事政権を排除したエルトリア独立派は、1993年5月、平和裏にエチオピアから分離独立。しばらくエチオピアと良好な関係を保ってきましたが、98年に突如として大規模な紛争が勃発します。紛争の直接的な原因は、両国間にまたがる、いわゆる「イイグラ三角地帯」の領有をめぐる主張の相違ですが、実際にはこの国境問題のほかにも、通貨問題、港湾使用料の問題などでエチオピアとの摩擦が鬱積していたようです。

 エリトリアは、エチオピアの北部の紅海沿岸地域で、エチオピア唯一の沿岸地域ですが、1880年代に紅海方面に進出してきたイタリアに占領され、1890年にイタリアの植民地となります。イタリアはエリトリアを足掛かりにしてエチオピアに進出。1936年にエチオピアを併合しますが、第二次世界大戦中、イタリアの勢力を退けたイギリスが1942年にエリトリアを保護領として52年までの10年間占領します。52年にはエチオピアの独立要求が通る形で、エチオピアとエリトリアの連邦制が国連決議により実現。これに力を得たエチオピアは62年、「エリトリア議会の決議」という形で、事実上エリトリアをエチオピアの1州として併合します。

 しかし、あくまでもエリトリアの独立を主張する一派は、58年にエリトリア解放戦線(ELF)を結成。61年から武装解放闘争を開始します。10年後の71年にはELF から分離したエリトリア人民解放戦線(EPLF)が主導権を握り、独立運動を継続することになります。

 さてそんな中、エチオピアは74年のクーデターで王制が廃止され、社会主義を唱える革命軍事政権が成立(エチオピア革命)しますが、同時にこの軍事政権の恐怖政治に反対する反政府解放組織の動きが活発になります。エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、これらエチオピア内の反政府組織と共闘することになります。軍事政権打倒には、27年の月日が必要となりましたが、冷戦の終結により、エチオピアに対するソ連、キューバの軍事的支援が失われると、軍事政権の抵抗力は著しく低下。エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を中心とする反政府勢力はこれを絶好の機会と考え、91年5月軍事攻勢を本格化。メンギスツ軍事政権を崩壊に追いやりました。

 このとき、EPRDF のメレス・ゼナウィ議長を暫定大統領とするエチオピア新政府が、共闘したエリトリア人民解放戦線(EPLF)に対するご褒美として、93年にエリトリアの将来を国民投票で決定する権利を約束したわけです。住民投票は約束どおり果たされ、国連の監視のもと、圧倒的な支持(99.8%)でエリトリア独立が平和的に決定しました。

 このように、エチオピアとエリトリアは、紛れもなく同じ目的をもって戦った仲間でしたから、よもや5年後に紛争が始まるとはだれも予想できませんでした。しかしながら、エリトリアは、周辺諸国とのいざこざが絶えない国であることも確かです。95年には紅海上のハニシュ諸島をめぐるイエメンと領土紛争が始まり、ジブチとは96年に国境付近で軍事衝突が起きていますから、エチオピアとの紛争も「新興国の国境を固めるための紛争」として説明できるかもしれません。ただし、エリトリアの独自通貨であるナクファを決済通貨として認めないとするエチオピア政府の態度や、アッサブ港の使用料をめぐって両国間に摩擦があったことも確かです。

 98年5月には、両国の国境上にあるイイグラ三角地帯の帰属をめぐって武装闘争が発生。首都空爆の応酬なども含め戦闘は大規模となり、2年間で数万人の死傷者と100万人を越す難民を出したといわれています。2000年12月には両国間で和平合意がなされましたが、その後も戦闘は継続。2008年には国連PKO(UNMEE)も撤退してしまいます。

 2018年、エリトリアのイサイアス大統領がエチオピアのアビィ首相が20年ぶりの首脳会談を行って戦争状態を終結することで合意しましたが、平和な状態が長く続けばと心から願います。 

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