エジプト・アラブ共和国

出典:外務省HP

1.エジプトの歴史を簡単に教えて下さい。

 「エジプトはナイルの賜物」と、ギリシャの歴史家ヘロドトスが言ったとおり、名エジプトを南北に貫くナイル川は、定期的に氾濫することで、砂漠に囲まれたエジプトを古代世界最大の穀倉地帯にしました。豊富なのは食料だけではなく金や銅、鉄などの鉱物資源にも恵まれたエジプトは、古代世界で最も繁栄した王国のひとつです。

 エジプトはまた、ヨーロッパから紅海を経てアラビア半島を巡り、インドに至る国際貿易を早くから中継しており、その商業活動は周辺諸国も潤しました。

 エジプトに統一王朝が出現したのが紀元前2950年と言われています。以後、アレクサンダー大王のエジプト征服で王朝が途絶えるまで、31の王朝が存在したということです。

 紀元前323年にアレクサンダー大王の征服を受けたエジプトは、大王のあとを継いだプトレマイオスが紀元前305年からプトレマイオス朝を興し、100年ほど隆盛を極めますが、フェニキア地方を巡るシリアのセレウコス朝との戦いでローマに援軍を求めたことからローマの介入を招くことになります。ローマの将軍アントニウスと結んだクレオパトラが、後のアウグストゥス帝が率いるローマ軍に破れ、紀元前30年、エジプトはローマの属州となります。

 ローマはエジプトの富と食料を利用して帝国を維持することになりますが、エジプトには重税に継ぐ重税を課して、国力は極度に低下していきます。イスラム軍がビザンチン帝国を破って地中海に進出したとき、真っ先にそれを歓迎したのがエジプト人だったことも、それまでの圧政を思えばうなずけることでしょう。また、642年にイスラム化したエジプトでは、キリスト教コプト派の住民が大多数を占めていましたが、彼らはビザンチン帝国の中では異端とされていたために、逆に同じく「異端」とされたイスラム教を歓迎したのです。

 以後、エジプトはウマイヤ朝(661-750年)とアッバース朝(750―1258年)の支配下に入りますが、969年、北アフリカで興ったファーティマ朝(909―1171年)の征服を受け、さらにはファーティマ朝の宰相だったサラーハ・アッディーン(サラディン)が興したアイユーブ朝(1169-1250年)の母体として繁栄しました。アイユーブ朝で面白いのは、おそらく世界で最初の軍人によるクーデターが起こったことです。1250年に起こったこの軍人クーデターによって、マムルーク朝という軍人政権が成立して、以後オスマントルコ帝国のセリム1世が1517年にエジプトを占領するまでの約270年間、エジプトを支配することになります。

 オスマントルコ帝国時代のエジプトは、名目上はオスマントルコの支配を受けていましたが、オスマントルコは、年貢を納めている限り、内政には口を出さなかったようで、長期間マムルーク朝の支配システムが継続していたようです。それが変化したのが1798年のナポレオンの侵攻でした。ナポレオンによる3年間の支配を受けたエジプトでは、マムルークの支配が崩壊して、ナポレオンが去った1801年以降、内部混乱をきたします。そこで登場したのがアルバニア人の軍人ムハンマド・アリーでした。

2.ムハンマド・アリーの台頭とイギリスの介入

 ムハンマド・アリーは、1805年にムハンマド・アリー朝(1805―1953年)を興します。このアリー朝のもとで、エジプトは近代化を推し進め、オスマン帝国最強の軍隊を創設します。

 アリーは、1820年にスーダンを征服した後オスマン帝国とも対立し、31年、39年とシリアに出兵し、オスマン帝国軍を散々悩ませます。これを見たイギリスは、1840年に軍事介入して、アリー朝の独立を認める代わりに、アリーはエジプト以外に進出しないことを認めさせます。

イギリスの影響はその後次第に強まり、1882年には軍事介入で、とうとうエジプトはイギリスの占領期に入ります。イギリス占領期に、エジプト産業は復興し、綿花とサトウキビ栽培で富裕農民層が形成されますが、第一次世界大戦後に、エジプト人の独立を目指す運動が革命につながり、1922年、イギリスは名目上、エジプトの独立を承認しますが、間接統治は続けることになります。特に1869年に開通したスエズ運河地帯に駐留したイギリス軍は、その後もエジプトの政治、産業に深く浸透していきます。

3.非同盟・中立とアラブ民族主義を掲げたナセル大統領

 そのような状況に終止符を打ったのが1952年、ガマル・アブデル・ナーセル率いる「自由将校団」の軍事クーデターでした。翌年ナギブ初代大統領の下で共和制を宣言したエジプト・アラブ共和国は、56年、ナーセル大統領が就任し、同年スエズ運河国有化を宣言。まさにエジプト人によるエジプトの独立が、オスマントルコ支配以来440年ぶりに達成された瞬間でした。

 さて、ナーセル大統領によるスエズ運河の国有化は、当然スエズ運河の株主であるイギリスとフランスの介入を招き、スエズ動乱(第二次中東戦争)が勃発しますが、その際にソ連と深く結びつき、ソ連の経済援助でアスワン・ハイ・ダムなどのインフラを整備していきます。エジプトの社会主義化に神経を尖らせたアメリカは、以後対ソ連という世界戦略の中で中東政策をとらえるようになり、イスラエルに対する援助を強化しました。その一方でイギリスやフランスの、中東に対する影響力は低下していくことになります。

 さて、1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)出席後、ナーセル大統領は非同盟・中立主義を掲げ、アラブ世界に対してはアラブ民族主義、別名ナセリズムを唱えました。この理念に基づいて、58年、シリアと国家統合を実行し、アラブ連合共和国を建国しましたが、力関係から言ってエジプトに有利な人事が多く、シリア側の反発が出て、結局連合共和国は61年に解体することになります。

 ナーセル大統領はその後もイエメン内戦に介入したり、64年の第一回アラブ首脳会議を主導したりして、アラブ世界の結束を呼びかけ続けますが、67年の第三次中東戦争でイスラエルに完敗し、シナイ半島とガザ地区を占領されてからは、影響力が低下しました。

4.サダト大統領の親米政策

 1970年に死去したナーセル大統領の後を継いだアンワール・サダト大統領は、73年の第四次中東戦争を主導しますが、その後エジプトを親ソ連から親米に180度転換させ、アラブ諸国に対する関与からも次第に手を引いていきます。76年にソ連との友好協力条約を破棄したサダト大統領は、翌77年にエルサレムを訪問。79年にアメリカの仲介によるイスラエルとの単独和平を実現。この時からアメリカの支援を受ける国家に転じて現在にいたっています。サダト大統領は、この対イスラエル単独和平でアラブ世界から孤立。また、国内反対派の抵抗も強まって81年イスラム過激派組織「ジハード」に暗殺されることになります。

5.ムバラク大統領から「アラブの春」へ

 サダト大統領の後を継いだムバラク副大統領は、サダトの親米路線を継承。以後米国主導の中東和平交渉でもアラブ・イスラエル間の調停役として機能してきました。ムバラク大統領は1981年から2011年まで、30年にわたる長期政権を担いましたが、2010年末にチュニジアで起こったジャスミン革命と呼ばれる民主化運動がエジプトにも飛び火して、30年にわたる独裁的な政権を担っていたムバラク政権の腐敗を追求。「アラブの春」と呼ばれるようになったこの民主化の波の中でムバラク大統領は2011年の2月に辞任に追い込まれました。

 代わって、2012年にはムルシー大統領が選出されますが、立法権は軍の最高評議会が担うという、民主化とは程遠い内容だったため、街には政権に対する抗議デモがエスカレートして暴徒化し、それを武力で鎮圧しようとした政府側の治安部隊との間で激しい衝突が繰り返されました。混乱した政情は経済の混乱も引き起こし、エジプト通貨の急激な値下がりによる外貨準備高の低下で信用不安も引き起こしました。結果、ムルシー政権は就任以来1年で軍部のクーデターにより失脚。2014年からは、クーデターを起こしたアッ=シーシー大統領が政権を担っています。

 アッ=シーシー大統領は現在、景気刺激策の一端として新スエズ運河計画や膨大な新行政首都建設計画などのメガプロジェクトを次々と打ち出しましたが、エジプト通貨に対する信用不安が原因で、計画の一部を除いてUAEや中国の出資者が手を引いている状況です。いずれにせよ、経済の立て直しと安定した政権運営が大国エジプト復活に向けた課題です。

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