エクアドル共和国

出典:外務省HP

1.エクアドルの歴史を教えてください

 1830年に独立した後のエクアドル共和国は、しばらく「教会とカカオの支配」を受けることになります。どういうことか見ていきましょう。

 実は、エクアドルの初代大統領は、エクアドル人ではありませんでした。グラン・コロンビアがヌエバ・グラナダ副王領から分離独立した当時のエクアドル側の指導者は、シモン・ボリバルの副官だったスクレ将軍という人だったのですが、1830年、エクアドルがグラン・コロンビア共和国から分離するときにスクレ将軍が暗殺され、代わりにベネズエラ人のフロレス氏が大統領に就任して、軍事政権を発足させることになったのです。

 さて、このフロレス大統領、教会が大嫌いで、当時南米大陸で、スペインとともに勢力を拡大していたイエズス会の追放を決意します。しかし、いきすぎた教会弾圧に対する反発がフロレス政権を弱体化し、61年には逆に、ガルシア・モレノ大統領が、宗教独裁とでも言うべき、非常に宗教色の強い政権を樹立します。モレノ政権のもと、エクアドルは経済的に発展し、鉄道や学校施設も整備され、次第に国家としての体裁を整え始めます。

 しかしこの時期、エクアドルでは、カカオ産業で潤う改革派の沿岸部と、保守派の山岳地域との間で対立関係が生じてきます。この対立関係は、カカオ産業の調子が良いときには沿岸部の改革派に有利に展開しました。彼らはカカオ貿易による潤沢な資金によって、次第に教会を中心とする保守勢力から実権を奪い、95年には沿岸部の利益を代表するグアヤキル自由党のアルファロ氏が大統領に就任。彼は徹底した政教分離政策を実施。以後、教会の財産を没収するなどの強攻策にでます。アルファロ大統領のあとを継いだプラサ大統領も沿岸部優遇政策を継承しますが、この時期にはカカオ貿易に関連して、政治家と商人と銀行家が癒着する構図がはっきりしてきました。

 さて、この時期のエクアドルの対立軸を整理してみますと、山岳部には、教会の勢力を重視する保守派が、沿岸部には、カカオ貿易で潤う資本家と、それと癒着する政治家が、それぞれ存在したわけです。この対立は次第にエスカレートしていき、1925年には山岳部の組織した軍隊が軍政を布いて、沿岸部の銀行家や資本家の独裁を排除しましたが、世界恐慌と、カカオの生産力低下によって経済が打撃を受け、軍政は期待通りの成果をあげられませんでした。

 このように、沿岸部と山岳部の対立によって不安定化したエクアドルに追い討ちをかける事件が41年に起きました。ペルーによるエクアドル侵攻です。この侵攻作戦は短期間で終わり、翌42年のリオ・デ・ジャネイロ議定書では、アマゾン地方の6割強をペルー領とすることが決められ、新しい国境線が引かれることになりましたが、エクアドルはこのリオ・デ・ジャネイロ議定書と新国境線を拒否。1998年にペルーと和平合意が結ばれるまで半世紀以上にわたりペルーとの間に常に緊張した関係が続きました。

 ちなみに、当時日本はペルーとエクアドルの国境地域に埋設されている約10万個といわれる地雷除去を推進するため、国連開発計画(UNDP)に対し61万ドルの緊急無償援助を行なうなどして地域の安定化に寄与しました。

 さて、ペルー侵攻によってエクアドルの世論は一変します。「われわれは、くだらない対立関係で国家を弱体化してはならない。一致団結してペルーから領土を奪い返そう」という意識が対立当事者間に芽生えたのです。こうして1944年、ベラスコ・イバラ大統領が山岳部、沿岸部の対立を克服して28年間に渡る長期政権を樹立することになります。

 しかし、1972年に軍部がイバラ政権を追放して、左翼的な軍事政権を樹立してからは、アメリカとの関係が極度に悪化し、また、国内で行なわれた共産的な農地改革が不評で、エクアドルは再び不安定期に入り、軍事政権は弱体化。79年に民生移管されて現在に至っています。

 このように、グラン・コロンビアからの分離独立以来、内乱につぐ内乱で、政治的安定を欠く状況が展開されてきたエクアドルでしたが、経済面でも不安定な動きがありました。石油産業は、現在でもエクアドルの主要産業となっていますが、1987年の大地震によりパイプラインが破壊され、さらには主要石油埋蔵地だったアマゾンのセネパ地方をめぐって1995年にペルーと紛争状態に突入。エクアドルは結局武力紛争に敗北して1998年にペルー側に有利なように国境線の画定します。この様な状況の下で、対外債務が膨らみ、その改善策として97年に採られた緊縮財政も、国民を疲弊させるだけで、効果がありませんでした。

 結局、同年に発生した10万人規模のゼネストでブカラム政権が崩壊し、98年の大統領選で選出されたマワ政権が経済の再活性化に取り組みましたが、なかなかうまくいきません。99年2月に、同国通貨スクレの変動相場制移行を発表したものの、それが通貨下落の引き金となり、3月には労働団体が97年以来のゼネストを断行。それに対して政府側は非常事態宣言で対抗したりして、かなりの混乱が起こりました。

 マワ大統領は、2000年1月に起こった、軍による退陣要求で辞任に追い込まれ、代わって軍部や国家警察の支持を受けたグスタボ・ノボア副大統領が大統領に就任しました。このノボア大統領は、混乱する経済の復活をかけて、エクアドル通貨スクレを、半年かけて全部米ドルに置き換えるという、南米初のいわゆる「ドル化政策」を推進しました。具体的には、1ドル=25000スクレの交換比率で、4月から半年にわたって順次、スクレをドルに交換するというもので、2000年9月9日を交換の最終日として、現在、エクアドルの通貨は完全に米ドルになっています。

 その後も政権は安定せず、マワ大統領からノボア大統領に(2000年)、ノボア大統領からグテイエレス大統領へ(2003年)、グテイエレス大統領からコレア大統領へ(2007年)と、短期間で大統領が次々と失脚する展開となりましたが、2007年に就任したコレア大統領は、国民の圧倒的支持を得て長期政権を担います。2008年に経済格差是正を柱とする憲法改正を行うと、対外的にははっきりとした反米を掲げ、親米国家のコロンビアと国交断絶を行いました。また、同じく反米を掲げる隣国ベネズエラのチャベス政権と友好関係を築き、南米の統合を目指した南米諸国連合の創設に主導的な役割を果たしました。

 2017年の大統領選挙ではコレア大統領の副大統領を務めたモレーノ氏が大統領に就任します。コレア大統領の後継者として選挙で勝利したモレーノ大統領は、当然反米路線を継承するものと考えられていましたが、大半の予想を裏切って親米政策に転換。2018年には親米の自由貿易圏である太平洋同盟(チリ、ペルー、コロンビア、メキシコ)に加盟。自ら主導した南米諸国連合からも脱退してしまいました。逆に反米国家ベネズエラとの関係は悪化。ベネズエラ主導の米州ボリバル同盟からも脱退して、現在エクアドルはベネズエラと極度の緊張関係にあります。

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