ウルグアイ東方共和国
出典:外務省HP
1.独立後のウルグアイの歴史を教えてください。
ウルグアイは、1986年のGATT総会を誘致し、そこで、俗に「ウルグアイ・ラウンド」と呼ばれる多国間貿易交渉が始まったことで有名ですね。ウルグアイは、建国当初を除き、ほとんど内紛やクーデターなどの政変がなく、長期にわたって安定した社会を保ってきました。また、政治的にも、二大政党制が早くから導入され、合議制による民主主義体制が確立していました。教育水準も高く、識字率も南米1です。外交も積極的で、95年にはブラジル、アルゼンチン、パラグアイとの南部共同市場(メルコスール)に加盟しています。
さて、1810年にアルゼンチンの独立運動が始まると、ウルグアイの有力者達も立ち上がり、スペイン勢力を駆逐することに成功しますが、その後の展開がいただけません。パラグアイやウルグアイ側は、旧リオ・デ・ラ・プラタ植民地を分割して連邦制にすることを主張しましたが、一方のアルゼンチン側は、ブエノス・アイレスを中心とする中央政府の樹立に固執し、両者のいがみ合いは戦闘状態にまで発展しました。
この内紛状態を見たポルトガルは、1821年、ウルグアイに軍事侵攻して、まんまと併合してしまいます。ウルグアイは、22年に独立を果たしたブラジルの領土として継承されますが、アルゼンチン側としては、それを黙ってみているわけにも行かず、1825年に、ウルグアイ内の独立勢力を支援したため、26年、アルゼンチンとブラジルの直接戦争が勃発。1828年に、ウルグアイの独立を両国が承認する形で幕を閉じました。
このように、アルゼンチンとブラジルの強い影響を受けて独立したウルグアイでしたから、独立当初から半世紀は、かなりの混乱がありました。
しかし、過去を反省し、二度とこのような状態を起こさないようにと、国民が歩み寄ったところがウルグアイのえらいところでした。1903年、大統領に就任したオルドーニェス氏は、弱者の救済と労働者の保護を訴え、南米初の社会福祉国家としての基礎を固め、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれるまでになりました。また、政治面では大統領の権限を制限し、反対政党も政策に参加できるようにするため、大統領と同等の権限を有する国家行政委員会を設けるなど、この時代としては突出した議会制民主主義を選択。1952年には大統領制も廃止して、国家政治委員会を唯一の行政府とするユニークなシステムが出来あがったのです。権力の座にある人が、自らの権限を制限してまでも信念を通せば、改革など、すぐに出来るのですね。
ただし、民主国家ウルグアイが唯一軍政を経験したときがありました。1960年代の経済の低迷が社会不安を掻き立て、合議制で物事を決めるシステムに批判が集中すると、ウルグアイ行政府は、15年ぶりに大統領制を復活。しかし、それでも経済状態の解決にはならず、反政府ゲリラが横行したため、それを鎮圧する軍部が、次第に政治に口を挟むようになってきます。とうとう1973年には議会が閉鎖され、85年までの12年間、軍政が敷かれることになりました。
しかし、ウルグアイの軍政は、例えばアルゼンチンなどの軍政と比べると非常に平和的で、弾圧も、人権侵害もほとんど報告されていません。84年には総選挙が行われ、85年から民政に戻って現在に至っています。
2.ウルグアイの現状は?
さて、20世紀初頭から、斬新的な議会制民主主義をとって、非常に安定した社会をもたらしたウルグアイでは、経済も順調に発展しました。もともと農畜産物の生産が主流だったウルグアイでは、そこで得られた外貨を工業化に向けて再投資しており、1930年代には、アルゼンチンに次ぐ工業国となっていました。ただ、その後重工業化に失敗したウルグアイは、一時期経済の低迷による社会不安がもとで軍事政権が台頭する事態となりましたが、70年代には外資導入による輸出向け工業の振興が図られ、工業生産物の輸出は、70年代を通して4倍に膨れ上がりました。
1973年から12年間続いたウルグアイの軍政が、比較的穏便に統治できたのも、このような経済的好調が幸いしたのかもしれません。
しかし、80年代に入ると、南米の累積債務問題や、通貨危機が相次いで表面化し、ウルグアイ経済もそれに巻き込まれるようにして停滞。インフレ率も、90年には112%にまで上昇しました。累積債務も膨らんで、83年には債務不履行となってしまいましたが、95年にブラジル、アルゼンチン、パラグアイとの南部共同市場(メルコスール)に加盟して「小さい国内市場」という建国以来の問題点を克服したウルグアイ経済は順調に回復。2019年現在、ウルグアイの一人当たりの国民総生産は17、000ドルと、南米1位の実績を誇っています。