ウズベキスタン共和国
出典:外務省HP
ウズベキスタンは、最近日本との関係が非常に緊密になってきている中央アジアの大国です。ウズベキスタンといえば馴染みが薄いかもしれませんが、かつてチンギス・ハーンが、広大なモンゴル帝国をつくったときに、その中心となり、またその後継者のティムールが帝国の首都としたサマルカンドがあるところといったほうが通りがよいかもしれません。
ウズベキスタンは、中央アジア諸国の中で一番人口が多い国ですが、産業の4割以上が農業に従事し、重工業もあまりないような国ですから、一人当たりの国民総生産はそう高くありません。これには理由があって、ソ連時代の経済システムは地域分業型計画経済でしたから、どの国は何をどのくらいつくるということが前から決まっていて、それ以外のモノをつくる努力をしなくても良かったわけです。ということで、ウズベキスタンでは綿花の栽培が義務づけられましたから、2019年現在でも綿花の生産量は旧ソ連地域で1位、全世界で6位と、ウズベキスタンの主要産業となっています。
しかしながら、独立してからも綿花だけに頼っているわけにはいかないので、現在では天然資源、特に天然ガスの開発が進んでおり、輸出産業の有望な投資先となっています。その他の鉱物資源では、金の産出量が重要で、年間65トンは、ロシアに次ぐ生産量となっています。
1.ウズベキスタンの歴史を簡単に教えてください。
ウズベキスタンはアラル海へそそぐシルダリヤ、アムダリヤという南北二本の川に挟まれ、オアシスが点在する肥沃な土地でしたから、古くから定住民族が入れかわり立ちかわり国を建てていました。また、中国とペルシャ、インド、ヨーロッパを結ぶ交通の要であるという立地条件から、古来より通商が盛んで、東西の文化が融合した独特な文化が育ちました。
さて、ウズベク人のルーツは、モンゴル系の遊牧民族だといわれています。13世紀、中央アジア一帯はモンゴル帝国の支配下に入りましたが、その時に定住民との混合が進んで、現在のウズベク人の一部を構成するようになります。14世紀には同じくモンゴル人のティムールが、現在のサマルカンドを首都とした帝国を築きあげ、トルコ・イスラム文明の最盛期を迎えました。ウズベク人の中では、このティムールを英雄に祭り上げて、ウズベク・ナショナリズム運動を展開する人もいるほど、ティムール帝国はウズベキスタンの古き良き時代の象徴なのです。また、15世紀末、北西のキプチャック草原からこの地域に進入してティムール帝国を滅ぼしたのも、同じくモンゴルの末裔でした。この時の遊牧民族の名称が「遊牧ウズベク集団」だったことから、後にこの地域の住民をウズベク人と呼ぶようになったということです。
さて、その後19世紀まで、この地域一帯はヒヴァ・ハーン国、ブハラ・ハーン国、コーカンド・ハーン国という三つの国に別れて統治されていましたが、19世紀の後半には中央アジア全域がロシア帝国の支配下に入り、コーカンド・ハーン国はトルキスタン省フェルガナ州に、ヒヴァ・ハーン国とブハラ・ハーン国の一部はロシアの影響を多大に受けた独立国として生き残ることになりますが、結局1920年のソ連軍の軍事介入で両国ともに崩壊してしまいます。
この様に、ウズベキスタン地方はソ連統治時代初期に分断されてしまったわけですが、1924年のソ連による民族的境界線の画定で、サヨナラホームランが飛び出します。1924年1月から始まった中央アジアの民族的境界画定に関する討議は、ロシア共産党中央アジア・ビューローを中心に行なわれましたが、その時に各地方から集まった代表が、ああでもないこうでもないと議論しながら線引きをしていったのです。ですから、結局交渉の上手い下手で、境界線が決まってしまうというところがありました。この時ブハラ共和国の代表を務めたのはホジャエフという人でしたが、彼は持ち前の政治手腕を発揮して、古来のブハラ・ハーン国の土地にプラスしてサマルカンド地方の一部とフェルガナ盆地、さらにサマルカンドやタシュケントといった主要都市を追加することに成功するのです。こうして1925年に出来たのがウズベク共和国。そしてその当時に画定された境界線が、現在のウズベキスタン国境として受け継がれていくわけです。
2.ウズベキスタンには民族問題はないのですか?
ウズベキスタンは、人口の約72%がトルコ系のウズベク語を話すウズベク人で、その他の少数民族はロシア人が8%、タジク人、カザフ人がそれぞれ4%台という、圧倒的なウズベク人国家です。しかし面白いのはブハラ・ハーン国の首都だったブハラの都市住民だけは、長い間タジク(ペルシャ)語を話すイラン系定住民族だったということです。ブハラ・ハーン国の主要民族であったトルコ系のウズベク人がこの地を統治するようになっても、この首都ブハラの民族構成には長らく変化がなかったそうです。しかし、やはり多勢に無勢。ソ連時代の定住政策により、遊牧を行なっていたウズベク人が都市に住みはじめるようになると、少数派のタジク人は、徐々にウズベク人の影響を受け、次第に同化していきました。
さて、1991年9月独立以後現在まで、ウズベキスタンでは国内紛争らしき紛争はありませんが、独立前の89年には、かなり大規模な民族紛争が起こりました。一般にフェルガナ事件と呼ばれるこの紛争は、ウズベク人とメスフ人の対立が流血の惨事に発展したものです。メスフ人というのは、ウズベク人と同じトルコ系イスラム教徒ですから、民族紛争の例として挙げるのは適当ではないかもしれません。実際、フェルガナ事件は、別名「兄弟殺しの悲劇」とも呼ばれています。
しかしながら、それぞれの政治的背景はかなり違っています。メスフ人は、もともとカフカス地方のグルジア南西部に住んでいた部族です。ちょうど、ソ連がトルコと国境を接するあたりですが、第二次世界大戦中、トルコ系イスラム教徒であるメスフ人が、スパイ活動をしてソ連の情報をトルコに流していたとする噂が流れ、彼らは集団で中央アジアに強制移住させられたのでした。とにかく、気に食わない者はとりあえず中央アジアやシベリアに送っておこうという政策は、旧ソ連のもっとも得意としたところです。メスフ人はその「とりあえず政策」の犠牲だったというわけです。結局。スパイ嫌疑は68年に晴れたわけですが、グルジアへ戻ることは許されず定住化。89年当時中央アジアに在住したメスフ人の人口は約8万といわれています。
フェルガナ事件は、経済的困難に陥ったウズベク人が、不満のはけ口をメスフ人に向けたために起こった事件とされていますが、はっきりとしたことはわかりません。紛争の結果数万のメスフ人が国外に逃れたということです。
3.現在の政治体制はどうなっていますか?
1991年8月に独立したウズベキスタンでは、同年の大統領選挙でカリモフ氏が当選。95年には国民投票で大統領の任期が2000年まで延長されました。カリモフ大統領は、改革を焦らず騒がずじっくりやっていく人物という印象で、急激な市場経済導入を行なってつぶれてしまったロシアとは対照的な印象があります。また、ウズベキスタンの市場経済の導入には日本から多くの専門家が関わっているということ、さらに日本の経済援助が効果的に作用していることをここで触れておくべきでしょう。
内政における唯一の不安材料は、カリモフ大統領がイスラムなどの宗教が政治的活動をすることを固く禁じていることです。これは、イスラム原理主義などの急進派の活動を抑えるために考えられた政策ですが、人口のほとんどがイスラム教徒であるウズベク人の間では、あまり評判の良い政策ではなく、一時期、野党、反政府勢力からの批判が強まりました。
さて、外交の分野ですが、ウズベク人の人口は旧ソ連の中でもロシア人、ウクライナ人に次いで第3位になっています。そのほとんどがウズベキスタン国内にいればよいのですが、実際にウズベキスタン国内にいるウズベク人は全体の71%で、残りは近隣のタジキスタン(23.5%)、キルギスタン(13%)、アフガニスタン(10%)、トルクメニスタン(9%)などに散らばっています。これら近隣諸国のウズベク人居住区を、ウズベキスタンに統合すべきであるという主張がそれぞれの国に住むウズベク人の中から出てきており、キルギスタンではこのことが発端で民族対立に発展。タジキスタン、トルクメニスタンでは現在なお緊張関係が続いています。
カリモフ大統領は、1991年の独立以来、ほぼ独裁的に政権を運営してきましたが、2016年に死去。同年末に行われた選挙でミルズィヤエフ氏が第二代大統領に選出されて現在に至っています。
4.心配事はありますか?
縮小を続けるアラル海とその汚染です。ウズベキスタンとカザフスタンにまたがるアラル海は1960年代には世界第四位の湖でした。ところが、その後60年間でその面積は5分の一以上に縮小してしまいました。これは旧ソ連が進めた「自然改造計画」によって、アラル海にそそぐ2つの河川のうちアムダリヤ川をせき止め、灌漑用水としてトルクメニスタンのほうへ流れを変えたことが原因であることがはっきりしています。
アラル海の塩分濃度は1993年に海水を超えるまでに上昇して、漁業は崩壊。周辺の農地から流される農薬や砂漠化した湖から巻き上がる粉塵で周辺住民の健康被害が問題化しています。
綿花栽培に依存していた経済も、2019年現在で一人当たりのGDPが世界192か国中第154位と低迷。貧困層は人口の45%に達しています。その一方で、トルクメニスタンからウズベキスタン、カザフスタンを経由して中国に至る中央アジア・中国パイプラインが中国資本で建設されたのを機に、ウズベキスタンでは天然ガスの増産と中国への輸出を進めており、この成功が経済復興のカギとなっています。