ウクライナ内の紛争

クリミア紛争、東部紛争

出典:外務省HP 

1.クリミア紛争

 クリミア・タタール人が集中したクリミアは、もともと1921年にロシア共和国の自治共和国として登録されましたが、ロシアの民族分散政策によってクリミア・タタール人が強制移住の対象となったため人口は激減。1954年にはウクライナ共和国領に編入され,クリミア州となりました。クリミア州はウクライナの中でもロシア人の人口が飛び抜けて多く、1989年の統計で67%がロシア人と、ウクライナ人の2.6倍を占めていました。そのため、ソ連崩壊後の91年8月にウクライナ共和国が独立すると、翌月クリミアではロシアへの帰属を求め、クリミア共和国として独立を宣言します。ウクライナとクリミアの対立は92年から激化しますが、ウクライナ側がクリミアの自治を認める形でクリミア自治共和国を編成。しばらくは小康状態を保っていました

 同時期、ウクライナ共和国ではロシアとの関係をどうしていくべきかについて、意見が割れていました。エネルギー供給でロシアに依存しているウクライナがロシアと距離をとることは現実的ではないとする一派と、EU加盟を目指して西欧諸国との関係を強化すべきとする一派が対立。特に、2004年に隣国ポーランドとスロバキアなど東欧8カ国がEUの加盟するに及んで、欧米か、ロシアかという選択は、ウクライナにとって緊急の課題となりました。

 そんな中、2004年に行われた大統領選挙では、親ロシア派のヤヌコーヴィチ候補が、西欧派のコシチェンコを抑えて当選するのですが、コシチェンコ側は選挙に不正があったとして大規模な政治集会とデモを展開。この時デモに参加した民衆がオレンジ色のものを身に着けて参加したため、のちにこれがオレンジ革命と呼ばれることになりますが、結局、ヤヌコーヴィチ候補が折れる形で再選挙が実施され、今度はコシチェンコ候補が当選。ウクライナは西欧諸国との関係強化に向かうものと思われました。ところが、せっかく選出されたコシチェンコ陣営の中で内部分裂が起こり、政権運営が混乱。コシチェンコ大統領は民衆の支持を得られず、2010年の大統領選挙では再び親ロシア派のヤヌコーヴィチ候補が選出されることになりました。

 しかし、ヤヌコーヴィチ政権も長続きしませんでした。ヤヌコーヴィチ大統領は2004年に行われた、つまり自分が敗れた選挙後に採択された民主憲法を無効とする決定を下し、またEUとの政治・貿易協定に対する調印も拒否して、国内の親欧米派の神経を逆なでします。2014年にはヤヌコーヴィチ政権に反対する大規模なデモが発生。政府軍が介入しますが、反対運動は鎮圧しきれない規模に膨れ上がったため、政府側は憲法改正と大統領選挙の早期実現を約束してデモの鎮静化を図ります。ヤヌコーヴィチ大統領は支持基盤である東ウクライナへ脱出。反政府側はトゥルチノフ議会議長を大統領代行に担ぎ上げて、新政権を樹立します。暫定政府は念願であったEU協定に署名。ウクライナの財政、経済改革をIMFとともに進めるなどして、欧米諸国との関係強化に向けて動き出しました。

 そんなウクライナをロシアが黙ってみているわけがありません。ヤヌコーヴィチ失脚は、クーデターであるとして軍事介入を始めるのです。行先はクリミア半島。1992年以来、ウクライナとクリミアのロシア人の対立が続いているクリミア半島でしたが、ロシア軍の侵攻で独立勢力が勢いづき、2014年にはクリミア共和国の独立が宣言されます。次いでロシアへの編入が住民投票で決定され、ロシアのプーチン大統領は速やかにクリミア共和国のロシア連邦編入を表明して現在に至っています。

 2019年には俳優のゼレンスキー氏が当選し、第6代大統領として政権を担っていますが、ロシアの関係改善には時間がかかりそうです。

2.ウクライナ東部紛争

 クリミア紛争後、ウクライナ共和国内の親ロシア勢力による独立運動は東部のドネツィク州やルガンスク州に飛び火しました。ドネツィク州とルガンスク州は、ロシアに国境を接する地域ですが、ドネツィク州では、2014年に親ロシア派によってドケツィク人民共和国の独立が宣言され、ルガンスク州では同年ルガンスク人民共和国として独立宣言を出しました。また同年5月24日には、これら2つの共和国が共同でノヴォロシア人民共和国連邦の結成を宣言して事実上のロシア連邦の支配下に置かれています。同様なロシア化の波はロシアに国境を接するハルキウ州にも飛び火しています。2019年、ウクライナとロシアは武装勢力の引き離しに合意してはいますが、クリミア問題と同様、東部紛争の解決の糸口はまだ見えません。

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