インドネシア共和国
出典:外務省HP
1.インドネシアの簡単な歴史を教えてください。
インドネシアは、北はフィリピン、南はオーストラリア、西はニューギニア、東はタイと国境を接し、大小1万6000ほどの島で構成される、実に大きな島嶼国家です。人口は日本の2倍を超える2億6400万人で、世界第四位。その大部分がイスラム教徒(87%)ですから、現在、世界で一番多くのイスラム人口を持つ国となっています。何しろ有人の島が3000以上、民族集団の数が300以上ともいわれ、言葉も習慣も多種多様の国ですから、国民の大部分がイスラム教という共通点を持つのは、統治する側からすれば都合のいいことかも知れません。
インドネシア一帯がイスラム化するのは15世紀頃です。13世紀にインドでイスラム化がはじまると、当時インドを介してイスラム諸国との貿易を盛んに行なっていたマラッカ王国(15世紀頃にインドネシア一帯に勢力を伸ばした王国)にもイスラム教が徐々に浸透していったわけです。経済的には、西欧やイスラム諸国で香辛料の需要が高まり、貿易の中心としてのマラッカの地位は、次第に高まっていきます。
16世紀に入ると、西欧諸国が、この「金のなる木」に目をつけます。最初にやってきたのはポルトガルで、まず1511年に香辛料貿易の中心マラッカ港を占領します。次いでスペインが、16世紀末にはイギリスとオランダが進出してきます。この利権争いに日本や中国の商人たちもからむのですが、結局17世紀にはオランダの独壇場になっていきます。オランダは1602年に「オランダ東インド会社」という世界初の株式会社を設立しましたが、その内容は「香辛料貿易の拡大」と、「戦闘手段を含む邪魔者の排除」という物騒な会社でした。
1799年まで続くこの株式会社によって、商売敵はことごとく排除されていきます。1619年にはジャカルタを中心とするイギリス勢力が、41年にはマラッカを中心とするポルトガルが、それぞれオランダ勢力に敗れ、67年には、現地勢力をほぼ掌握して、一帯を植民地化することに成功するのです。
さて、オランダ東インド会社は、1799年に閉店。かわってオランダ政府が直接その管理にあたります。イギリスの世紀といわれる19世紀には、一時インドネシア一帯がイギリスによって支配されますが、イギリスとオランダは1824年に和解。占領地を交換しあって、ほぼ現在のインドネシア領に近い国境線が引かれることになったわけです。以後、オランダはインドネシアの有力な島々を征服し、支配体制を整えていきます。
オランダの支配に対し、独立を要求する動きがインドネシアで出てきたのが20世紀初頭です。1911年には「イスラム同盟」が、翌12年には「東インド党」が、14年にはアジア初の共産党といわれる「社会民主主義同盟」(1920年に「東インド共産党」に改称)が、矢継ぎ早に結成されますが、どれも追放や弾圧ですぐにつぶされてしまいました。スカルノ元大統領が「インドネシア国民党」を結成したのもこの頃です。これら、独立運動の指導者が集まって28年に出した宣言が、青年の誓いと呼ばれるもので、その中で彼らは「一つの祖国インドネシア、一つの民族インドネシア民族、一つの言語インドネシア語」という理想の国家像を夢見たわけです。
2.インドネシアと日本とのつながり
インドネシアの独立に日本が深く関わったからです。太平洋戦争開戦と同時に日本軍はオランダ領インド(インドネシア)に侵攻して、オランダ勢力を追い出します。インドネシアには石油やゴムなどの戦略物資が豊富にあり、日本が戦争を継続するためにはなくてはならない土地でした。しかし、日本軍の戦局が悪化してくると、地方で反乱の火の手が上がりはじめたのです。
そこで、日本政府は、インドネシアの離反を防ぐ目的で、1944年9月、独立を約束したわけですが、当時の日本駐留軍のえらいところは、約束をとことん守ったことでした。日本がほとんど敗戦の道を歩んでいた45年3月、インドネシアで独立準備調査会を設立した日本軍当局は、8月14日、つまり、日本降伏の前日に独立準備委員会21名を任命。独立への準備を着々と進めていたのです。8月17日、スカルノ氏を中心とする青年グループが独立宣言文を発表した時、すでに敗戦を知っていた日本軍関係者が立ち合ったとい事実にも、独立を支援する彼らの並々ならぬ熱意が感じられます。
以後、オランダとの交渉、及び内部抗争に悩まされたインドネシア独立派は、粘りに粘って49年に主権を獲得、翌50年にインドネシア連邦共和国を建国することになったわけです。独立後のインドネシアでは、50年代、各地で独立宣言や反体制運動が起こり、政治的にかなり不安定な時期が続きましたが、スカルノ初代大統領は大統領の権限を強化して、何とかこれを乗り切ります。しかし、65年の「共産党の反乱」を力で弾圧してからのスカルノ大統領は信任をなくし、68年からはスハルト大統領による新政権が誕生。以後、30年間スハルト体制が続きました。ちなみにスカルノ初代大統領の第三夫人が皆様ご存じデヴィ・スカルノ夫人です。
3.1998年に辞任したスハルト大統領とはどんな人物ですか?
建国の父と称されたスカルノ初代大統領のあとを継いだスハルト大統領は、開発の父と呼ばれます。その名称が示すように、スハルト氏は、インドネシアの安定と経済発展に地道な努力を続けてきた人でした。もちろん、最後は長期政権と腐敗に嫌気がさした国民の反感を買い、辞任に追い込まれたわけですが、同大統領がインドネシアを国家としてまとめ、安定と繁栄をもたらした業績は評価されるべきものがあります。
スハルト氏は、21年、ジャワ島中部の村で生まれました。当時のインドネシアは、オランダからの独立運動が芽生えてきた時期で、スハルト氏は、その幼年期を独立運動の波の中で過ごすことになります。20年には、アジア初の共産党組織となったインドネシア共産党が結成され、20年代を通じてインドネシア各地で独立を要求する蜂起が起きていましたし、共産党がオランダ植民地政府によって弾圧されてからは、スカルノ初代大統領が結成したインドネシア国民党を中心とする民族運動が始まっています。
28年、後のスカルノ大統領らによって出された「青年の誓い」、つまり「一つの祖国インドネシア、一つの民族インドネシア民族、一つの言語インドネシア語」という民族宣言は、現在のインドネシア憲法の基本理念として残っていますが、10代をこの民族主義の高揚と共に過ごしたスハルト氏は、この民族の統合と独立という課題に最大の関心を払うようになります。
19歳で軍隊(オランダ領東インド軍)に入隊したスハルト氏は、日本軍の占領を受けた42年(当時21歳)からは、日本軍の組織したペタ(祖国防衛義勇軍)の一員として対オランダ独立運動に参加します。しかし日本敗戦後の45年から49年まで続いた、インドネシア独立にまつわるオランダとの熾烈な政治的、軍事的戦いの中では、中心的な役割を演じ切れない若い一将校にすぎませんでした。
ところが、スハルト氏の名声をいやがおうにも高める事件が1965年、降ってわいたように起こります。いわゆる「9月30日事件」です。当時、インドネシアの政体は、最大野党のインドネシア共産党と、反共産主義の軍との微妙な力のバランスの上に成り立っていましたが、このバランスを強力な指導力で保ってきたスカルノ初代大統領の病状悪化がもとで、ついに衝突が起こります。
共産圏以外では最大といわれるインドネシア共産党は、軍の共産党主義者を集め、65年10月未明にクーデターを決行。陸軍司令官を筆頭に6人の将軍を殺害。革命評議会を樹立するのです。
ここでスハルト氏が初めて歴史の表舞台に登場します。有力将校をクーデターでなくした国軍は、当時陸軍戦略予備軍将軍の地位にあったスハルト氏に全権を委譲して、事態の収拾を模索します。スハルト氏はインドネシア共産党勢力と、それに加担したとされる中国系インドネシア人を徹底的に弾圧し、一連の戦闘で30万から50万の粛正が行なわれたともいわれています。
9月30日事件を鎮圧したスハルト氏は67年、スカルノ初代大統領退陣を迫る軍内部の強硬派と学生らに推される形で大統領代行に、翌1968年3月には第二代大統領として正式に就任することになり、以後1998年までの30年間にわたる長期政権を維持しました。
4.スハルト大統領が「開発の父」と呼ばれるわけは?
スカルノ初代大統領の時代、インドネシアは非常に混沌として、インドネシアという国そのものの定義も認識も、国民の間で定着していませんでした。
インドネシアが独立宣言を行なったのは1945年8月でしたが、それ以後、スカルノ大統領は、独立を容認しないオランダ政府との間で5年間にわたる「独立戦争」を戦わなければなりませんでした。49年のハーグ協定によって正式に独立が認められた後も、オランダが組織した15の「国家」と特別区域を統合するのにさらに1年かかっていますし、西イリアンの主権をオランダから取り戻すのに、さらに19年の歳月が必要でした。
また、国内的にも人口4割のジャワ人政権への統合を不服とするイスラム教徒の反乱や共産主義者の反乱などが地方で相次ぎ、インドネシアの政体も、共産党勢力とイスラム勢力、軍勢力などの微妙な勢力バランスの上に成り立った、非常に脆弱なものでした。つまり、「建国の父」スカルノ大統領は、「国」の実態が整わないうちに失脚に追い込まれたといった見方もできます。
一方、共産党勢力の徹底的な弾圧によって大統領の座に就いたスハルト大統領の時代には、領土問題もほぼ解決済み。最大の不安定要因だった共産主義者も、自分が弾圧したおかげではじめからいませんし、自分自身、軍の出身ということもあって、非常に強力な政治基盤が最初から存在していました。ですから、スハルト大統領は、インドネシアを国として機能させるため、経済をどうするかという課題に集中できたという点で、ラッキーな面があったといえます。
5.スハルト長期政権を支えた「ゴルカル」とは何ですか?
スハルト新体制が目指したものは、簡単にいうと、インドネシア国内及び周辺地域の「安定」と国内の経済「開発」でしたが、「安定」の面でスハルト大統領が最初に打ち出したのが、対外的には親米政策と地域宥和政策、対内的には軍主導による「指導された民主主義」体制の確立でした。
まず、スハルト大統領は1967年、インドネシア共産党の最大の支援者と目されていた中国との国交を断絶(90年再開)。逆にスカルノ時代に敵国とされてきたマレーシアとの国交を回復し、ともにASEANに加盟するなど、地域協力に積極的に取り組む姿勢を打ち出します。
また、スハルト大統領は、西側寄りの態度を鮮明に打ち出し、外資導入による経済開発に力を入れるようになります。このことは、西側資本主義体制にも、東側共産主義体制にも距離を置くという、いわゆる「非同盟・中立」主義を掲げたスカルノ初代大統領とは、一線を画した政策転向でした。
一方で、国内の安定を目指したスハルト大統領は、ゴルカルという、軍を主体とする政体を打ち出しました。ゴルカルというのは、インドネシアの職能集団(ゴロンガン・カルヤ)の略称ですが、もともと、独立後の社会混乱に対処するため、軍の主導で57年にできた労働農業青年・婦人団体が基礎になっています。軍出身のスハルト氏の政権が発足した時、その支持母体として活躍したのが、このゴルカルだったのです。1万6000ほどの島々で構成され、300もの民族集団を抱えるインドネシアを力でまとめるためには、軍の主導で安定的に民主主義を導入するしかなかったのでしょう。
さて、スハルト政権初期の政党活動では、このゴルカルが最大与党としての議席を約束され、5年ごとに行なわれる総選挙では、このゴルカルが絶対多数の得票数を得られる仕組みになっていました。この時期の政党活動が「指導された民主主義」と呼ばれるゆえんです。これは、共産党弾圧後の政党活動の安定化を図る、あくまでも暫定的な措置でしたが、結局、この構造が1998年まで引き継がれ、反スハルト運動のやり玉の一つにあげられました。
6.スハルト大統領を辞任に追い込んだ原因は何ですか?
金融の破綻です。どこの国でも、長期政権は嫌がられるものですが、特に国内の政治・経済事情が良くない時は、なおさらです。実は、インドネシアの内政不安は、1997年の総選挙前からすでに起こっていました。1996年4月、大統領の政治顧問といわれてきたスハルト夫人が死亡。またスハルト大統領自身の健康状態を見た野党側が、変革を訴えて97年の総選挙に向けて活性化するのです。しかし、そのリーダーとして一番人気だったインドネシア民主党のメガワティ・スカルノプトリ女史は、軍の介入で政治活動を制限されてしまいます。97年には、政治的腐敗や不平等な経済事情に対する不満が鬱積していた国民が、首都ジャカルタで1万人規模の暴動を展開。以来、インドネシア国内で抗議デモや暴動は恒常的に発生しました。
このような状態の中で出てきたのが、通貨ルピアの暴落でした。インドネシアの通貨(ルピア)は、それまでドルに固定されて連動していたのですが、97年7月、タイと共に変動相場(フロー)制に移行してからは、ドル買い、ルピア売りの傾向が加速され、98年に入っても通貨の暴落は止まりませんでした。日本政府による円借款の前倒しも、IMFの支援決定もルピア下落の歯止めとならず、民衆の生活も逼迫してきました。
そこでスハルト大統領が出したのが公共料金の値上げと、ガソリンなどのエネルギー関連品に対する補助金の削減など、一連の経済政策でした。実はこの一連の政策はIMFが、インドネシア政府に対して行なった指導の一部でしたが、国内的には私腹を肥やして政府の補助金でビジネスを行なってきたスハルト一家に非難が集中したわけです。
国民の不満は98年5月の暴動に発展し、98年3月の大統領選挙で一旦大統領に選出されたスハルト氏退陣の声は、ゴルカル内からも、軍部からも、さらにはアメリカからも出るという事態になり、スハルト大統領は5月21日に退陣を表明。副大統領のハビビ氏が後継者となって今まで制限されてきた政党結社の自由化を推し進め、1999年には本格的な民主主義による選挙が行われる運びとなりました。
ちなみに、このハビビ大統領の下で、東ティモールの独立にまつわる問題が前向きに進められたことは特筆すべきです。
選挙の結果、ワヒド第四代大統領が就任しますが、2001年に議会の不信任投票で解任。副大統領のメガワティ女史が第五代大統領に昇格しました。
7.インドネシアの現状は?
第五代大統領に昇格したメガワティ女史は、スカルノ初代大統領の長女という知名度と行動力で、反政府運動の旗印として活躍。国民の支持を得てスカルノ大統領に引導を渡したところまではよかったのですが、たった一度の政権交代で、経済問題や社会問題など、インドネシアが抱える様々な問題が一気に解決されるわけもなく、変化を求める国民の期待に応えられないメガワティ政権は国民の信任をなくしていきます。結果、2004年に行われたインドネシアで初めての直接選挙では軍部を代表するユドヨノ氏に敗れ、2009年の選挙で再挑戦するも再びユドヨノ大統領に敗れてしまいました。熱しやすく冷めやすく、あてにならないのが人の心ですね。ユドヨノ大統領は任期満了の2014年まで政権を維持して退任。2014年の選挙で当選したジョコ・ウィドド大統領が2019年の選挙も制して大統領二期目を維持しています。