インドネシア内独立運動の歴史
アチェ、西イリアン、東ティモール
インドネシアには、2002年5月20日に、東ティモール民主共和国として独立を勝ち取った東ティモールのほかに、アチェ、西カリマンタン、アルク州アンボン、イリアンジャヤ州などで独立ないしは自治を要求する運動が頻発した時期がありました。
アチェ、西イリアンその他の独立運動の再燃は、東ティモールの独立が直接のきっかけとなっています。「東ティモールが良くて、なぜ我々がだめなのか」というわけです。東ティモールの住民投票で独立派が勝利を収めたのが99年9月。同年末には、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAMET)による暫定自治が始まったわけですが、すでに同年11月8日には住民投票を求めるアチェ住民の大集会が開催され、12月4日には、独立派組織「自由アチェ運動」(GAM)設立二十三周年を記念して、同組織が各拠点で集会を行うなどの動きが始まりました。
西イリアンの独立運動は細々と続いており、2000年には連邦国家をめざす憲法草案を起草したり、2000年5月1日までにインドネシア軍が撤退することを要求したりするなど、具体的な独立要求が出された時期がありました。
1.アチェ独立運動
インドネシア内で繰り広げられている独立運動の中でもアチェ州の独立紛争の歴史は非常に古く、19世紀末には、すでにオランダとの熾烈な独立紛争が始まっていました。
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インドネシアのスマトラ島最西部に位置するアチェ王国は、ヨーロッパ、インド、中国を結ぶ中継貿易の拠点、さらにはコショウの産地として栄え、16世紀にイスラム王国として独立。17世紀に最盛期を迎えていました。
同時期、インドネシアの他の地域は、同地域を香辛料貿易の戦略拠点として捉えていたイギリス、ポルトガル、そしてオランダ勢力によって次々と植民地化され、1667年には、この植民地獲得戦争に勝ったオランダ東インド会社によってほぼ掌握されました。19世紀に入ると、今度はマレー半島に拠点を置くイギリス勢力が同地域に進出。オランダ勢力と一進一退の紛争を繰り返しますが、この紛争は1824年の両国の和解で決着がつき、互いの占領地を交換し合って、国境線を引きました。これが現在のマレーシアとインドネシア間の国境になっています。
しかし、この時点においても、アチェ王国はその独立を保っていたのですから立派です。結局、1873年から本格的にスマトラ島への侵略を開始したオランダ勢力によって、アチェ王国は崩壊するのですが、その後も、アチェの住民は結束してオランダ勢力に抵抗。「アチェ戦争」として有名なこの抵抗運動は、なんと1912年まで続いたといいますから、アチェの独立運動は筋金入りです。つまり、アチェの住民からすれば、「すぐに白旗をあげてしまった不甲斐ないインドネシアといっしょにされてもらっては困る」という民族的自負心があるのです。
さて、アチェと独立後のインドネシア政府は、これまでに何度も衝突しています。1950年には、アチェに特別の地位を与えるという約束を破ったインドネシア政府に対して自治権を要求する反政府運動が起き、イスラム運動と結びついた武装闘争に発展。1957年、スカルノ大統領は、アチェに高度な自治権を与える特別州の地位を与えることになりました。以後、アチェの独立運動はいったん下火になるのですが、70年代後半、独立運動が再び緊迫した段階を迎えることになります。
70年代後半に再発したアチェの独立運動は、アチェ特別州におけるガス田の発見がきっかけとなります。70年代前半、スマトラ島東部のアルーン地域で天然ガスの発見があり、インドネシア政府は76年から天然ガスの開発プロジェクトに着手しましたが、このアルーン地域がアチェ特別州の中にあったのです。インドネシア政府は、有望なガス田が、アチェの独立運動と結びつくことを恐れて、開発や計画には、アチェ住民を一切関与させませんでした。この差別的な政策に腹を立てた独立運動家が集まって1976年、自由アチェ運動(GAM)という武装闘争組織が結成され、独立運動が再開されたわけです。
これに対し、インドネシア政府は89年、アチェ特別州を軍事作戦地域に指定して、GAMの掃討を理由に、スハルト政権が崩壊する98年までの10年間にわたって弾圧を続けました。これに対抗する形で、「アチェ・スマトラ国民解放戦線(NLFAS)」などが結成され、独立を求める武装闘争が激化。約4000人の死傷者が出たとされます。
スハルト元大統領の、容赦ない軍事弾圧によって、一時は下火になったアチェの独立運動は、スハルト大統領の退陣によって再び息を吹き返します。弾圧を逃れ、89年にスウェーデンに亡命していた「自由アチェ運動(GAM)」の指導者ハッサン・ティロが帰国。99年にアチェ独立を宣言してインドネシア国軍との衝突を招き、治安は極度に悪化しました。またアチェ住民は、東ティモールで行われた、独立を決定する住民投票をインドネシア政府に要求します。
1998年にスハルト大統領の後継者となったハビビ大統領は、アチェ住民に謝罪。アチェ特別州に対してイスラム法を適用するなどの融和策を提示しました。これにより、2002年、アチェ特別州は「ネガラ・アチェ・ダルサラーム」へと改称。2005年末にはGAMの軍事部門の解散を宣言して、独立運動は事実上の終結を迎えました。
2.東ティモール問題
東ティモールは、1702年にポルトガル領になった土地ですが、200年間にわたるオランダとの土地争奪戦の末、1904年に、ティモール島の西部をオランダ領、東部をポルトガル領とすることで決着がつきました。西部のオランダ領ティモールは、インドネシア独立の際にインドネシア領になりましたが、東ティモールはポルトガル領として残ります。
出典:外務省HP
さて、74年にポルトガルで政変が起きたのをきっかけに、東ティモールでは独立運動が巻き起こります。東ティモール独立革命戦線(フレティリン)中心に展開された独立運動は、75年、ポルトガル総督の帰国を合図に、東ティモール人民民主共和国の独立を宣言しますが、これに対してインドネシアの息のかかったティモール民主同盟(UDT)が反抗。12月にインドネシア軍の侵攻が始まり、東ティモールは、76年、第27番目の州としてインドネシアに併合されてしまいます。
以後フレティリンによる再独立運動が展開されたわけですが、スハルト元大統領のもとでは、一切の交渉が拒否され、フレティリンの行動も弾圧されていました。ところが、スハルト大統領退陣後に成立したハビビ政権は98年6月、東ティモールに「特別州の地位を与える」用意があることに言及。さらに、7月には軍事、外交、財政の3分野を除く幅広い自治権を東ティモールに与えるという独自案を国連に提出。国連の仲介を受けて旧宗主国ポルトガルとの交渉に入りました。
このようなハビビ大統領の積極的な姿勢によって、99年6月には国連東ティモール・ミッション(UNTAET)設立の国連安保理決議が採択。同年8月30日には、独立の可否を問う住民の直接投票が行われました。住民投票の結果は独立派の大勝利に終わるのですが、結果発表直後から、独立に反対する勢力の破壊・暴力行為が急増して、現地情勢は急激に悪化しますが、国連多国籍軍(INTERFET)の介入によって東ティモールにやっと安定が訪れました。
その後、独立に向けての準備が順調に行われ、99年10月には国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設立。2000年7月には東ティモール暫定政府が、10月には国民評議会がそれぞれ発足して完全独立は秒読み段階に入りました。2001年8月には憲法制定の議会選挙が行われ、9月20日に東ティモール政府が発足。そして最終的に2002年5月20日、東ティモール民主共和国として完全独立することになりました。(詳しくは東ティモール民主共和国参照。)
3.西イリアン独立運動
イリアンジャヤ(西イリアン)の独立運動は、住民投票が絡んだりして、東ティモールの状況と若干似ているところがあります。
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19世紀にオランダの支配に入ったニューギニア島では、その領有権を争って1945年から61年までオランダとインドネシアが対立しますが、このとき、オランダもインドネシアも出ていけという第三の勢力が独立運動を始めたとされています。
このような、三つ巴の紛争に終止符をつけるべく、国連がこの問題を取り上げた結果、61年、西イリアンは、国連の暫定統治下で「自由パプア国」として独立を宣言します。さて、同地における国連の暫定統治は63年に終了するのですが、国連とインドネシア政府との間の取り決めにより、自由パプアはインドネシアに移管されてしまうのです。これを見た住民の一部は、移管の理由付けやプロセスが不透明だったとして独立運動に再び火がつき、65年には独立運動が「自由パプア運動(OPM)」として組織化されるに至りました。
結局、インドネシアへの併合の是非は、住民投票によって決着。69年、西イリアンが正式にインドネシア領となったわけですが、独立派の運動はその後も続き、インドネシア軍とたびたび武力衝突を繰り返したため、多くの住民が、ニューギニア東部のパプアニューギニア(75年独立)領内に難民として移住。長期にわたり政治問題化しています。
西イリアンの独立運動は細々と続いており、2000年には連邦国家をめざす憲法草案を起草したり、2000年5月1日までにインドネシア軍が撤退することを要求したりするなど、具体的な独立要求が出された時期がありました。