インド共和国

出典:外務省HP 

1.国民会議派など、インド政党の簡単な歴史を教えてください

 インドは長いイギリスの植民地時代を経て、1947年に独立を達成しますが、その独立の立役者となったのが国民会議派でした。国民会議派は、1885年、インドの人種差別的な行政に反対する団体として、主に植民地時代の支配者層が中心となって作られた団体でした。当初の活動は政治的なものというより、穏健派の意見交換の場という雰囲気でした。第一次世界大戦後、そんな国民会議派にマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルー、チャンドラ・ボースなど新しい指導者が現れて、イギリスからの独立を目指す運動の母体として活動を展開しました。特に、ガンディー氏の非暴力、不服従というスローガンは有名ですね。

 ちなみに、チャンドラ・ボースは、日本の協力でインドの独立を勝ち取ろうと努力した政治家として有名です。ボースは来日時、日本でインド独立運動を行っていたビハーリー・ボースやA.M.ナイルの協力を得るのですが、ビハーリー・ボースは滞在先の新宿中村屋の婿となって、インド式カレーの作り方を伝授。またA.M.ナイルも、戦後インド料理店「ナイルレストラン」を作ったことでも有名です。

 さて、こうした先駆者の活動で第二次世界大戦後の1947年に独立を勝ち取ったインドでは、52年の第1回選挙で国民会議派が過半数を獲得。ネルー首相のもとで政党としての活動を開始することになります。しかし国民会議派は1977年の選挙で、反国民会議派のジャナタ党に大敗したために分裂。78年にはインディラ・ガンディー氏を中心に新しい国民会議派が結成されました。(ちなみにインディラ・ガンディー首相はマハトマ・ガンディー氏とは姻戚関係にありません。)

 しかしながら、そのインディラ・ガンディー首相は、84年に暗殺され、その後を継いだ長男のラジーヴ・ガンディー氏も91年に暗殺されるなど、国民会議派の長期政権維持の過程では、多大な犠牲が払われてきました。

 ラジーヴ・ガンディー首相暗殺後ナラシマ・ラオ氏が党首になって政権を維持しました。ラオ氏は経済自由化政策を推し進めて、インドは特にIT産業の分野で著しい成長を遂げます。今では、インド人抜きでは世界のIT産業は成り立たないとさえ言われるほどにインドのIT産業は充実しているのですが、その発端となったのがこの時期だったのですね。

 しかしながら、ラオ首相は汚職発覚がもとで96年に辞任。ラジーヴ・ガンディー元首相の妻であるソニア女史が国民会議派の総裁となりましたが、この時期、国民の期待はもう一つの政党であるインド人民党に向けられたのです。

2.インド人民党とはどのような政党ですか?

 1996年総選挙以来、国民会議派をもしのぐ一大勢力にのしあがったインド人民党(BJP)は、その前身を民族奉仕団といい、これは48年に非合法化された、いわくつきのヒンドゥー至上主義集団でした。

 この集団は、当時「インドのすべての民族、宗教、カーストの和解・融合」を唱えていたマハトマ・ガンディー氏の暗殺に関わったとされていますから、とんだ「奉仕団」ですが、彼らは51年に「インド大衆連盟(BJS)」を組織。ヒンドゥー至上主義の立場から、国内のイスラム教やシーク教集団を疎外する政治方針を打ちあげます。また47年にインドから分離独立したイスラム教国のパキスタンに対しては、常に強硬姿勢をとるという、きわめて宗教色の強い政党でした。

 このような宗教的過激派の拡大を抑えるため、インディラ・ガンディー首相は75年、非常事態宣言を出して、野党政治家の多くを投獄しましたが、その過程で反国民会議派のジャナタ党(JP)が結成され、インド大衆連盟(BJS)も解党してこれに参加。77年の選挙で国民会議派を破る一大政党にのしあがります。

 しかし80年の選挙でジャナタ党が分裂したのが契機となって、反国民会議派は、インド大衆連盟(BJS)として再結成。後にインド人民党(BJP)と改称して現在に至っています。

 さて、現在のインド人民党は、ヒンズー至上主義を旗印にしていた以前の政治色を和らげ、宗教色の薄い純粋な政治集団としての立場をアピールしていて、実際、イスラム教徒の党員もつくったりしています。この事が「国民会議派に対抗しうる唯一の政党」という印象を有権者に与え、支持者を増やした要因だという人もいます。

3.1996年の総選挙以後の政局は?

 さて、96年の総選挙で、かろうじて第一党となったインド人民党(BJP)が中心となって、5月にバジパイ政権が誕生しましたが、このバジパイ政権は、議会の過半数を確保しきれず議会の承認を得られなかったために、なんと組閣13日目にして辞任。かわって総選挙で第三勢力となった統一戦線のゴウダ氏が首相の指名を受け、96年6月1日に政権の座に就きました。

 しかしながら、ゴウダ政権は、なんと13もの政党の連立による少数政権で、議席も545議席中197議席を押さえているに過ぎなかったため、政局がまったく安定せず、結局97年4月に総辞職。かわって国民会議派の閣外協力を取りつけたグジュラル政権が発足することになります。

 しかし、それもつかの間、今度は4月に選出されたグジュラル政権がぐらついてきます。グジュラル政権も前ゴウダ政権と同様、弱小政党がよせ集まった「統一戦線」が屋台骨になっていましたが、その中のドラビダ進歩同盟(DMK)が91年のラジーヴ・ガンディー元首相暗殺に深く関わっていたとして国民会議派から執拗な糾弾を受け、結局国民会議派の閣外協力を停止された統一戦線は崩壊。97年11月に総辞職となりました。

 1997年11月の内閣総辞職、国会解散を受け、98年には仕切り直しの総選挙に突入しましたが、「今度こそ政権復活を」と気合いが入る国民会議派は、暗殺されたラジーヴ・ガンディー元首相の未亡人ソニア夫人を担ぎ出し、鳴り物入りの選挙活動を展開しました。しかし蓋を空けてみると、前評判どおりインド人民党が躍進する形で終了。人民党の第一党が確実となりました。

 しかし、首相就任に必要な議席の過半数は270議席。一方、人民党及び人民党支持に回った議員の総数は264議席でしたから、そのままでは不信任になるという状況でした。最終的には18議席が信任投票棄権にまわったため、国会での信任投票はギリギリクリア。薄氷を踏むような危うい政党バランスの中で、第二次バジパイ政権が発足したというわけです。

そんな混沌とした政局の中で、唯一明るい話題が、97年7月の大統領選挙でした。任期満了に伴うこの大統領選で、なんとインドの最下層カースト出身者のナラヤナン氏が当選。外交でも、「宿敵」パキスタンとの関係改善を進めるなど、一時期明るい話題が紙面をにぎわしました。

4.インドの核保有宣言と現状

 さて、問題なのはバジパイ首相率いる人民党が選挙後の98年3月に掲げた新政策綱領の中に「核兵器開発・配備の選択肢を検討する」という一節が盛り込まれたことです。もともと人民党は、核拡散防止条約(NPT)や包括的核実験禁止条約(CTBT)への署名を拒否しており、またヒンズー至上主義の立場から、パキスタンや国内のイスラム教徒に対しては強行姿勢を取り続けてきたという実績があります。

 もちろん、人民党のこの新政策綱領に対して、パキスタンはいち早く反応。もしインドが核保有の道を歩むならば、パキスタンも同様の道を歩むという声明を出しました。

 こうして、98年5月11日に3回、13日にはさらに2回の地下核実験を強行したインドに対し、宿敵パキスタンも周囲の制止を振り切って5月28日に地下核実験を断行。両国政府は、直ちに核保有国宣言を行なって現在に至っています。

 99年2月、インドとパキスタンの両首相は、東パキスタンのラホールで会談。お互いの核保有を認め合い、緊張を緩和して、不用意な核の使用を控えることを確認する「ラホール宣言」を採択。両国の信頼醸成の第1歩として世界的に評価されました。しかし、それもつかの間、5月にはカシミールにおけるパキスタンゲリラの活動拠点をインドが空爆。以後2カ月にわたって両国の正規軍が戦う事態に発展(カルギル紛争)して、せっかくの歩みよりも水の泡となってしまいました。

 2001年にはイスラム武装勢力によるとされる国会議事堂襲撃事件が発生。インドはこの事件にパキスタン政府が関わっていると主張。全面戦争一歩手前まで緊張が高まりましたが、バジパイ首相は、2003年にパキスタンのムシャラフ大統領との首脳会談を実現。両国の緊張関係は緩みました。

 バジパイ首相は2003年に、仮想敵国である中国を訪問。インド側がチベットを中国領として認める代わりに、長年係争地だったシッキムをインド領として認めさせました。こうして、インドは1962年に中国との間で起こった国境紛争を62年ぶりに解決。中印貿易の再開が実現しました。

 さて、インド人民党の政権は2004年の選挙で国民会議派に敗れ、その後10年間にわたって国民会議派のシン首相が政権を担いますが、その期間中インド経済は急成長。実質経済成長率は2005年から4年連続9%台を続けるなどして、国際的にはBRICsと呼ばれ、経済発展著しい新興国として認識されるようになりました。

 人気のあったシン首相は、首相続投を拒否して任期満了で退陣。2014年の総選挙でインド人民党が10年ぶりの勝利を挙げ、モディ首相が18代首相として政権を維持しています。

5.カシミール問題とはどのようなものですか?

 1947年のインド・パキスタン分離独立以後、両国は3度にわたって戦争を繰り広げますが、そのうち2回が直接カシミール問題にからんだものでした。また東パキスタン独立にからんだ第3回目の戦争でも、停戦協定の中にカシミール問題の関する取り決めの条項が盛り込まれましたから、実際には、直接戦争のほとんどの原因がカシミール問題といっても過言ではありません。

 さて、インド北西に位置し、パキスタンと国境を接するカシミール地方は、イギリス植民地時代にはヒンドゥー教徒の王様が統治する国でしたが、人口の6割はイスラム教徒で占められていました。この人口の微妙な差が後々の紛争に繋がっていきます。

 まず、1947年にインドとパキスタンがイギリスから分離独立した際、カシミールの王様はインドへの加入を選択しましたが、イスラム教徒が6割を占めるこの地域がインドに統合されることを、パキスタンが黙って見ているわけがありません。パキスタンは直ちに軍隊をカシミールに派遣。他方、インドも軍を送り込んでパキスタンと対立し、両者は約1年半にわたる戦争に突入します(第一次インド・パキスタン戦争)。

 1949年には国連の仲介でインド・パキスタン停戦ラインが定められ、カシミールは暫定的にパキスタン側とインド側に分割されることになりました。カシミール地方は、ちょうど日本の本州程度の面積ですが、その土地の3分の2がインド(ジャンムー・カシミール州及びアクサイ・チン地方)に、3分の1がパキスタン(アーザード・カシミール及び北方地域)に分割されたと考えればよいでしょう。ただし、この暫定的な停戦ラインは、現地住民の住民投票で、初めて正式に国境として決定することになっていますが、現在までそのような住民投票は行なわれておらず、両国の国境線は正式に決定されないままです。

6.インドの核開発は中国のせい?

 ところで、カシミール問題はただ単にインドとパキスタンだけの問題ではありません。50年代に入ると、北方で国境を接する中国の動きも活発になってきます。49年の停戦ラインでインド側に編入されたジャンムー・カシミール州(JK州)のうち、ラダック山脈北東部に位置するアクサイ・チン地方は、50年代に中国軍の占領を受け、62年の中印国境紛争でも中国側が勝利して実質上中国の実効支配地となりますが、このことがきっかけとなって、インドと中国の対立が表面化。インドは中国に対抗する意味で、独自の核開発に着手するようになるわけです。また、インドの核開発を見たパキスタンが、「敵の敵」である中国の技術支援を受けつつ核開発に踏切ったのもこの頃でした。つまり、結果的にインド、パキスタン両国の核開発は、インドと中国の関係悪化が引き金になったということです。

 さて、インド領ジャンムー・カシミール州の特徴は、北部のカシミール地域にはイスラム教徒が圧倒的に多く、南部のジャンムー地域にはヒンドゥー教徒が多いという点です。ということは、停戦ライン設定後も、インドの国内問題として、カシミール地域の分離独立運動が起こる条件は整っていたということができましょう。実際、カシミール地方の分離独立運動は、80年代後半になって急激に活発化することになるのです。

 第二次インド・パキスタン戦争は、65年、停戦ラインを超えてインド領内に侵入したパキスタン側のゲリラをインド軍が攻撃。パンジャブ地方に越境侵攻したことから始まります。しかしながら、この戦闘は約1カ月で停戦となり、結局両国とも停戦ラインを遵守して、軍隊を撤退することで同意するという小規模な戦争だったわけですが、重要なのは、ソ連のコスイギン首相(当時)が調停役に選ばれたという点です。つまり、冷戦期にソ連とインドとの結びつきが強化される一方で、南アジア地域におけるソ連の影響拡大を恐れたアメリカは、ソ連封じのためにパキスタンを支援するという相互の二国間関係ができあがるのが、大体この時期だったということができましょう。

 さて、71年末に起こった第三次インド・パキスタン戦争は、東パキスタンの独立をインドがサポートしたことが直接の契機となったわけですが、この東パキスタン・インド連合軍対西パキスタン軍という図式がカシミール地方に飛び火しないはずがありません。結局72年の停戦協定(シムラ協定)では、東パキスタン(バングラデシュ)の独立が承認されたほか、カシミール地方では49年に引かれた停戦ラインにかわる「実効管理ライン」が設定されるなど、インドとパキスタンの境界線の問題も一段落がついたというわけです。

7.インド内のカシミール問題

 カシミールをめぐるインドとパキスタンの直接対決は、前述の3回にわたる戦争で、一応の決着を見たのですが、インド側に編入されたカシミール地方の問題は、インドの国内問題として現在まで尾を引いています。

 そもそも、1950年に制定されたインド憲法では、ジャンムー・カシミール州(JK州)に対して、独自の憲法制定を含む大きな自治権が付与されていたのですが、51年に行われたJK州の憲法制定議会選挙で第一党となったヒンドゥー教徒主体のナショナル・コンフェレンス党(NC党)は、86年のガンディー・ファルーク合意などを通じて、次々とJK州の特権を縮小して、インドと同化する方針を採ったのです。これはヒンドゥー教徒が大部分を占めるジャンムー州の住民には受け入れられましたが、イスラム教徒が圧倒的多数を占めるカシミール地方では反感を買いました。

 その結果、カシミール地方では89年頃からインドからの分離独立を求める過激派の活動が活性化します。主なグループは、JK州の独立を目指す「ジャンムー・カシミール解放戦線(JKLF)」、パキスタンとの統合を目指す「ムジャーヒディーン党」等がありますが、それらのテロ活動によって2020年現在までに数万人の犠牲者が報告されています。インド政府はこれらのテロ活動に対して軍を派遣して、徹底抗戦の構えを崩していませんが、99年5月には、カシミールに進入したパキスタンゲリラに対して、インドが空爆をしかけ、それがもとでインド、パキスタン正規軍の間で2カ月に及ぶ爆撃戦が展開される事態が発生しました。

 2019年にはイスラム過激派による自爆テロが発生。報復としてインド空軍がパキスタン領内への空爆を実行するなどして両国間の緊張が高まりましたが、堪忍袋の緒が切れたインド政府は今までJK州に与えられて来た自治権をはく奪。2019年10月31日、ジャンムー・カシミール州は、ラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール直轄領に分割されて連邦政府の直轄領となりました。このことでカシミール問題が沈静化に向かうのかどうか、予断を許さない状況が続いています。

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