イングーシ・北オセチア紛争
イングーシ共和国は、1934年にチェチェン自治州と合併して36年、チェチェン・イングーシ自治共和国となりましたが、全人口のうちチェチェン人が過半数を占め(89年の統計ではチェチェン人58%、ロシア人が23%、イングーシ人が13%)、イングーシ人は常に少数派でしたから、内政的にはチェチェン人が優先となる傾向が続きました。そこで、イングーシ人の権利を守るために、イングーシ共和国の分離形成をめざす運動が早くから起こっていました。
イングーシ共和国の分離独立要求は、1991年11月にチェチェン共和国が分離独立宣言を出した際に最高潮に達し、チェチェンのドゥダエフ大統領は、同12月分離に同意。92年6月にはロシアがイングーシ共和国を正式に承認することになりました。こうして、住民ほとんどがイスラム教スンニー派のイングーシ人という単一民族で構成される、旧ソ連邦内ではめずらしい国が誕生したのです。
さて、ここまでは平和裏に分離独立が行われたわけですが、この際に付近に住むイングーシ人を取り込んで、より強固なイングーシ人による国家を作ろうという考えが芽生えたのが運の尽きでした。イングーシ共和国は西隣の北オセチア共和国の人口の10%を占めるイングーシ人の帰属と領土の回復を求めたため、同共和国との武力衝突を引き起こしました。