イラン・イスラム共和国

出典:外務省HP

1.イランの歴史を簡単に教えてください。

 イランは、紀元前540年にアケメネス朝、226年にササン朝を築き上げたペルシャ人の国です。よく、イランをアラブ人の国と勘違いする人がいますが、イスラム教国とはいえ、使用言語はアラブ語ではなくペルシャ語ですから、お互い話は通じません。また、アラブ湾岸諸国の歴史のほとんどは、このペルシャとの対立関係が軸になっていますから、現在の国際関係を理解するうえでも、アラブ人とペルシャ人の違いは抑えておく必要があるでしょう。

 さて、18世紀の後半、1779年にカジャール朝ペルシャが成立しますが、この年は、ホメイニ師によるイスラム革命のちょうど200年前にあたりますので、ついでに覚えておくといいでしょう。ところで、19世紀はイギリスとロシアの世紀です。イランは、北方にロシアと国境を接する国でしたから、当然ペルシャ湾岸への出口を確保したいロシアの圧力を受けてきたわけですが、その一方で、ロシアにイラン経由で南下してほしくないイギリスも、イランの内政に介入するようになります。特に1828年、第二次ロシア・イラン戦争に勝利したロシアが、現在のカフカス地方及びアゼルバイジャンを奪い取ると、イギリスはロシアの南下政策をくい止めようと、イランに肩入れするようになり、第一次世界大戦後の1918年、イランは英国の保護領になります。

 このとき、コザック旅団の一員だったレザー・ハーンが、革命後のロシアの混乱に乗じて1926年、ロシアとイギリスの勢力を追い出してパーレビー朝を興すことになります。レザー・ハーンは、トルコのケマル・アタチュルクの影響を受け、イランから宗教色を取り除いて、西欧化と産業の近代化をはかりました。 

 この近代化は、第二代国王モハンマド・レザー・シャーによって引き継がれたのですが、シャーのもとで政権を担っていたモサデク首相は、イラン石油を国有化することでイギリスの石油権益を剥奪しようとします。これに対してイギリスはイラン原油をボイコット。当時生産を開始したクウェート原油の輸出にシフトしていきます。このイギリスとの対立の中で、シャーは国外退去を余儀なくされますが、53年にアメリカとイギリスの支援を受けた反モサデク派がクーデターを起こし、シャーが復権します。

 これ以後、シャーはアメリカとのつながりを最優先するようになり、石油の権益もアメリカ中心のコンソーシアムに売ることで莫大な石油収入を得るようになります。アメリカも、イランを湾岸諸国への拠点とするために強力にシャーを支援しました。63年には近代化、脱イスラム化を進める白色革命に着手、反対派の弾圧を開始します。ところで、58年にシャーとアメリカを結びつけるために暗躍した人物の名をノーマン・シュワツコフといいます。湾岸戦争で多国籍軍の総司令官となったノーマン・シュワツコフ将軍の父親です。親子そろって中東には縁の深かった家族ですね。

 イランの幸運が最高潮に達するのが、1973年でした。第四次中東戦争で高騰した石油価格がイラン経済を潤すようになるのです。しかし、このオイル・ブームの好景気で図に乗りすぎたのが運の尽き。その後イランは加熱した投資と石油収入の減退により、経済的混乱状態に陥るのです。石油バブルの崩壊ですね。これが国民のシャーに対する不信感を募らせ、社会の各層で国王打倒のスローガンが聞こえるようになったのです。1979年のホメイニ師によるイスラム革命は、シャーの政策上の失敗を糾弾する国民の声の結果だったのかもしれません。

2.イスラム革命ってなに?

 このような国民の不満が一気に爆発したのが78年にシーア派の聖都コムで起きた反政府暴動でした。これをきっかけに全国にデモの波が広がり、年末には全国で2000万人の大規模デモに発展。79年1月、ついにシャーはイラン出国を余儀なくされます。入れ替わりにパリに亡命していたホメイニ師が帰国、4月1日にシーア派イスラム教を国教とするイラン・イスラーム共和国を宣言することとなりました。

 さて、ホメイニ師は、革命当初から「イスラム革命の輸出」を唱えていましたから大変。人口の大半をシーア派住民が占める湾岸諸国で、シーア派の民衆蜂起でも起こったら首がいくつあっても足りないと考えた湾岸諸国の指導者達は、イラクのサダム・フセイン大統領をたき付けて、イランつぶしを影で支援してきたわけです。(イラク共和国参照)

 イスラム革命後のイランを恐れたのは、湾岸諸国だけではありませんでした。湾岸産油国に権益を持つアメリカ、イギリス、フランスなども、イスラム革命が湾岸産油国に飛び火して、政情が不安定になっては大変と、積極的にイラクを支持。イラクのサダム政権に、経済的、軍事的援助を惜しみなく与えます。要するに、寄ってたかってイランつぶしをやったのが、イラン・イラク戦争だったというわけです。

 結果、期待通りイランの軍事力は弱まったのですが、その一方で、イスラム革命の精神は残りました。それどころか、イスラム革命の思想は、反西欧主義、反帝国主義闘争、さらには反イスラエル闘争と重なって、アラブ世界の貧困層や若年層に支持されていくようになり、それがいわゆる「イスラム原理主義」運動として拡大していくのです。

3.イスラム原理主義とはどのようなものですか?

 近代になって西欧とイスラム世界の差は、政治的にも経済的にも歴然として来ますが、イスラム世界が近代文明から取り残され、西欧文明に飲み込まれていくのは、我々がイスラムの教えに反することをしているか、もしくは西欧文明自体が「悪」なのかどっちかだという考えがイスラム教徒の中から出てきます。つまり、神が人類に最後の預言を与えるためにムハンマド(マホメット)を遣わせたのだから、ムハンマドの教えは、非の打ち所のない「完成品」であり、物事がうまく行かなかったり、世の中が乱れたりするのは、「完成品」に背いた行動をとるからだというわけです。そこで出てきたのが「イスラムの原点に帰ろう」という運動、いわゆる原理主義運動でした。

 この原理主義運動というのは、もともとイスラム教が始まった時には存在しなかった、新しい価値観に対して、個人的にどう対応して行くべきかという宗教的な問いかけですから、その意味では決して新しい運動ではありませんが、特に第二次世界大戦以降、次第に反米、反イスラエル、反西欧など、イスラム社会を政治、経済的に脅かすものに対する行動が主体になっていきます。つまり、西欧文明の流入によって乱れたイスラム社会を、イスラムの原点に帰ることで正し、かつ「乱れ」の原点である西欧社会に挑戦していこうというのが、現代版原理主義という訳です。

 しかし逆に言うと、現状に矛盾を感じない者は、「原点」に戻ろうとしなくて良いわけですから、結果的に現存する原理主義組織のほとんどは、現行の政治、社会に不満を持つ貧困層や若年層によって支えられており、その行動も直接的、過激的なものを主体とする傾向があるのです。つまり、マスコミで言う原理主義者とは、平たく言うと、狂信的過激派といったところでしょうか。

4.イランがテロ国家だというのは本当ですか?

 イランが、国がらみのテロ行為を行ったという事実が、あるのか、ないのか、実際のところは解りません。しかしながら、イランのイスラム革命の思想が、現在中東で活動中の、様々な「原理主義組織」の精神的な拠り所となっていることは確かです。「イスラムの原点に返ろう」という精神は、テロとは全く関係のない種類のものですが、多くの場合、それが反米、反西欧、反イスラエルという武力闘争と絡んでいるために、イスラム原理主義=テロという考えに結びつくのでしょう。

 事実、イランは、これら様々な原理主義組織に対して、資金的、人的援助を行っています。特にレバノンのシーア派民兵組織「ヒズボラ」に対する支援や、パレスチナのイスラム原理主義組織ハマスに対する支援は良く知られています。しかし、これらの援助活動は、国家の予算で直接行われているというよりは、ほとんどが民間の「イスラム慈善団体」の手で行なわれています。いってみれば、NGOの活動が主体になっているわけです。資金的支援の額の方から言えば、サウジアラビアの民間組織から来る援助金の方が、はるかに多いくらいです。

 さらに、イラン・イラク戦争後のイランが、必ずしも「イスラム革命の輸出」にこだわっていないことは、イランの内政を見れば良く解ります。イランには、改革派と保守派、それに急進派という3つの勢力があります。改革派というのは、良いものであれば、西欧の体制や思想であっても取り入れていこうといった、穏健な人たちです。保守派というのは、都市部の商人階級を中心とする人々が中心になって構成されていますが、経済的には市場開放論者で、文化的には西欧的なものはすべて排除すべきだという考えを持っています。最後の急進派は、「イスラム革命の輸出」をかたくなに主張する頑固者です。急進派は、イスラム革命から92年まで、議会の多数派でしたが、ラフサンジャニ大統領の改革によって議会から追放されて現在にいたっています。しかしながら、彼らは社会的勢力として、特に貧困層を中心とする社会階層に支持されています。

 ホメイニ師は89年に亡くなりますが、彼は死の直前、3人の後継者を指名します。ラフサンジャニ氏、ハメネイ氏と、彼のいとこのムサウィー氏です。以後イランの政治は、これら3人の指導者によって進められます。三極体制と呼ばれるこの政治形態の中で、ラフサンジャニ氏が政治を、ハメネイ氏が宗教を担当する事になりますが、ラフサンジャニ氏が改革路線で経済の復興を模索する一方で、ハメネイ氏が、国内の急進派の教育係という役割分担でやって来たようです。つまり、イスラム革命で盛りあがったイスラム急進派の勢力を、いかにして落ち着かせるかが、ラフサンジャニ政権の課題であったといっても過言ではありません。

 その一方で、アメリカのクリントン政権は、「イラン・イラク二国封じ込め政策」を、湾岸戦争後の中東政策の柱としました。特にイランに対しては「テロ国家」というレッテルを貼って、95年5月には、対イラン全面禁輸措置を発表。96年には、リビアを含めた対イラン・リビア制裁強化法案が可決されました。

5.イランの現状

 97年、ラフサンジャニ大統領の任期満了に伴う大統領選で69%の得票率で当選したのがハタミ氏です。ハタミ氏は、ラフサンジャニ大統領以上に開けた人で、内では新聞、雑誌など出版の自由化を推し進め、外ではアラブ、西欧諸国との関係改善を目指す「穏健改革路線」に着手。フランス、イタリア、サウジアラビア、ドイツ、中国、日本などを精力的に訪問して、今までの外交的孤立状態からの脱却に精力的に取り組みました。

 ハタミ政権は、イラン国民に広く受け入れら、2000年に実施されたハタミ政権初の国会選挙でも改革派が大きく議席を伸ばし、保守派を凌駕しました。また言論の自由を追求するハタミ政権の姿勢も明確で、それまで発売禁止になっていた改革派の新聞、雑誌の出版許可を巡って国内が騒然としたこともありました。

 そんなハタミ政権のイランに対し、米国の態度も軟化して、イラン国民の査証(ビザ)発給手続きを簡素化したほか、98年にはクリントン大統領が「互恵主義に基づいた真の和解を求める」と関係正常化を提案。米国の「麻薬の主要製造・取引国」リストからイランを除外したり、99年にはイランに対する食料、医薬品の売却について経済制裁の対象除外方針を決めたりしました。2000年10月には日本を訪問して、イラン西部のアザデガン油田の開発で日本に優先交渉権を与える意向を表明しました。

 ところがアメリカでジョージ・ブッシュ政権が発足すると、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで非難するなど、両国の関係は再び冷却化。2005年に選出されたアフマディーネジャード大統領は外交的には反米の姿勢を貫き、原子力開発にも着手。対米関係はさらに悪化します。

 2013年には穏健派のロウハーニー大統領が登場して、原子力施設の定期的査察を受け入れるなどして西欧諸国の支持を得ますが、米国のトランプ大統領はイランに対して強硬な姿勢を崩しておらず、イランと米国の関係は再び緊張しています。

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