イラク共和国
出典:外務省HP
1.イラクの歴史を簡単に教えて下さい。
イラン・イラク戦争、湾岸戦争などで一躍世界の表舞台に踊り出たお騒がせ者のイラクですが、もともとは古代メソポタミア文明のシュメール、アッカド、バビロニアがあった土地としても有名です。8世紀から16世紀まで、アッバース朝ペルシャの統治領となりますが、その後オスマントルコ帝国の支配下に入り第一次世界大戦を迎えます。
第一次世界大戦後、オスマントルコの支配を離れ、イギリスの委任統治領となったイラクは、1932年にイラク王国として独立しますが、その後軍人政権が続き、内政は安定しませんでした。そのため1941年から再びイギリスの介入を受けますが、1958年、アブドゥル・カリーム・カーセムが率いる「自由将校団」のクーデターにより、10年間の共和制に移行します。共和制といっても、実際は軍人の支配期だったわけですが、それを打破したのが1968年のバース党*のクーデターでした。最初こそ軍人主導で行われたこのクーデターでしたが、バース党政権樹立直後から非軍人のサダム・フセインが頭角をあらわし、1979年からイラク戦争終結までの13年間、バース党と軍のすべてをコントロールする政権が続きました。
2.湾岸戦争は、なぜ起こったのですか?
1970年初期に全権を掌握したサダム・フセイン大統領は、まず72年に英国が権益を持つイラク石油を国有化するとともに全石油会社の国有化を75年に完了。西側石油資本からの経済的自立を一方的に実現します。以後、石油収入の増大で景気のついたイラクは、とても堅調な国家建設を続けていたのですが、1979年に隣国イランでイスラム革命が起こったあたりから雲行きが怪しくなります。イラク国民の半分は、イランと同じシーア派イスラム教徒でしたから、自然とイランに同調して、フセイン政権を批判する者も現れました。
一方、他の湾岸諸国によっても、イランのイスラム革命は頭の痛い問題でした。湾岸諸国の多くは多数派のシーア派住民を少数派のスンニー派支配層が統治する社会形態となっており、自国内のシーア派イスラム教徒がイランに同調して革命を起こしかねない状況は悪夢以外の何物でもないからです。
そこで、湾岸諸国はイラクにイランの防壁になってもらおうと、サダム・フセイン政権に資金面で肩入れをします。調子に乗ったフセイン大統領は、1980年、一方的にイランに侵攻。88年まで、勝ちも負けもしない消耗戦を戦うことになります(イラン・イラク戦争参照)。
さて、アラブのリーダーに担ぎ上げられ、イランのイスラム革命を封じ込める「盾」の役割を買って出たお調子者のサダム・フセインでしたが、8年間に渡って続いたイラン・イラク戦争が終わってイランの脅威が低下すると、湾岸諸国にあっさりと見捨てられます。戦争で戦い疲れ、自国の経済もボロボロになっていたイラクが回りを見渡してみれば、貧乏なのは自分の国だけ。他の国は戦争中にどんどん石油を売って、裕福な暮らしをしている。イラクにとってみればおもしろくない。特に、戦争中イラクの石油を勝手に採取して安売りしていたクウェートには腹が立つ。採取した分だけ現金で渡せ。さもなくば...ということで始まったのがイラクのクウェート侵攻だったわけです。
実際に戦争が起こった背景にはサダム・フセインの誤算とブッシュ前アメリカ大統領の「やる気」がかかわっています。サダム・フセインの第1の誤算は、クウェート侵攻自体に対する国際世論の反応が低く、進攻後の和平調停で、イラクに有利な条件を引き出せると考えていたことです。実際、クウェート人のなりふり構わぬ儲け主義は、アラブ諸国間ではすこぶる評判が悪く、生産枠を無視して増産を続け、結果的に世界の原油市場価格を引き下げていたクウェートに対し、OPEC(石油輸出国機構)内部からも強い非難の声が出ていました。しかし、クウェートの石油権益のほとんどすべてが米英の資本で掌握されている以上、クウェート侵攻が、米英の石油戦略に対するあからさまな挑戦になるという認識がサダム・フセインには乏しかったのです。
また、アメリカが和平調停を望まず、本気で戦争を始めたこと、さらにソ連(当時)が動かなかったこともサダム・フセインの誤算でした。ちなみにイラクのクウェート侵攻は1990年8月、多国籍軍のバグダッド攻撃は91年の1月の出来事でしたが、時期的に見て、ソ連は91年末に解体する直前でしたから、湾岸戦争でアメリカにたてつく余裕など全く無かったのです。
3.湾岸戦争後からイラク戦争へ
第1に、サダム・フセインを頂点とするイラクの統治体制は、崩れずにそのまま残りました。戦争直後のイラク国内には、独立を主張するクルド族とシーア派の反政府組織が、それぞれ北部、南部に割拠。国連側も、安全地帯及び飛行禁止地帯を設けてそれらのグループの保護に当たりましたが、サダム・フセインは、反政府の蜂起をことごとく弾圧。メとムチの政策により、反政府勢力の弱体化に努めました。
第2に、湾岸戦争の直接のきっかけとなったイラク・クウェート間の国境問題ですが、92年の国連決議で、イラクの主張が押し切られ、一方的に新国境が定められました。これにより国境が数キロ、イラク側に移動し、結果的にイラクの港町ウンム・カスルの一部と、イラク所有のルメイラ油田の一部がクウェート領となりました。これにより、イラク西部の石油開発に障害が起こるのは必至で、新国境は、同地域の石油権益をめぐる2国間関係の将来に新たな火種を投じた形になりました。
第3に、イラク側が大量破壊兵器に関する新たな査察の受入れを98年以来拒否して来たためアメリカのブッシュ政権がイラクによる大量破壊兵器の生産と保有を疑って2003年3月にイラクに対する空爆を開始(イラク戦争)。戦闘自体は短期で終了しますが、アメリカ軍はその後2011年末までイラクに駐留することになりました。
4.イラクの敗戦がイスラム国を生んだ?
イラクにとって、最大の不安定材料は、その民族・宗教構成にあります。実は、サダム・フセイン政権をはじめ、イランの政権を担って来たのはスンニー派イスラム教徒で、全人口の20%程度の少数派です。それに対して、一番人口が多いのはシーア派イスラム教徒の60%。さらに、クルド人の人口が20%となっていますから、イラクの政権は、北部のクルド人の独立運動と、南部のシーア派住民の「イラン化」を常に警戒していなければなりませんでした。
北部クルド人居住区で行われた88年、91年の弾圧、それに85年、98年に行われた南部シーア派反政府勢力に対する弾圧など、サダム・フセイン政権が行った大規模な弾圧の根底には、このようなイラクの特殊な社会構成が存在するのです。
イラク戦争後、この社会構造に劇的な変化が起こります。2003年、アメリカを筆頭とする有志連合は連合国暫定当局(CPA)の管理の下で戦後イラクの民主化に向けた準備をはじめ、2005年末に新しいイラクの代表を決める議会選挙が行われました。イラク初の民主選挙で圧倒的多数を獲得して第一党となったのはシーア派の統一イラク同盟でした。2006年にはマーリキー首相が選出。以後2020年現在まで4代にわたってシーア派の首相が組閣しています。民主主義の占拠では、多数決で物事が決まりますから、人口の一番多いシーア派の代表が選出されるのは当たり前ですね。
2010年のアメリカ軍撤退後のイラクでは、シーア派、スンニー派、クルド人から各一人ずつの代表を選出して、三者の危ういバランスの下で政権を運営する方式になっていますが、当然のことながらイラクのシーア派に対するイランの支援は拡大しており、イランの影響がイラクに及ぶことに神経質な周辺の湾岸諸国の懸念材料となっています。
民主化というと聞こえはいいですが、その国、地域ごとの特殊事情に沿って注意深く導入しないと余計なお世話ばかりか、逆に政治バランスを崩して混乱を招くことにつながりかねません。2010年にチュニジアで発生して中東諸国に広がった民主化の波(アラブの春)も、結局その先々で政変や混乱、内戦を誘発して現在に至っています。シリアでの「アラブの春」が、結果として史上最悪の人権問題といわれるシリア難民を引き起こしたことを考えると、民主化というシステムそのものが国家の安定と民衆の幸福に結びつく唯一の道だと考えるのはいかにも単純で危険であると思わずにはいられません。
いずれにせよ、戦後の民主化によりイラクで行き場を失ったスンニー派、特に支配階級だったバース党の残党はイラク北西部からシリア国境に新天地を求めて移動。その一部がイスラム国(IS)の建国へと進んでいきました。
*バース主義
「バース」は「復興」を意味するアラビア語で、バース主義は、1930年代半ばにシリアのインテリ層を中心に掲げられた政治理念。エジプトのナセル大統領のもとで起こったナセリズムとともにアラブナショナリズムの動きを代表する。バース主義は、全アラブ統一国家建設を目標とする急進的な思想で、1953年にシリアで政治結社建設(アラブ復興社会党=バース党)後、50年代にかけてシリアからイラク、レバノン、ヨルダンに支持者を増やした。しかし、1966年にイラクとシリアの指導部が分裂して以降勢いを失い、シリアとイラクの対立関係が現在まで続いている。