イスラエル・パレスチナ紛争
ユダヤ人の歴史とパレスチナ問題の背景
西岸地区の分離壁 cc Justin McIntosh
1.ユダヤ人の歴史:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教との関係は?
セファルディム、およびミズラヒームの存在(「ユダヤ人とは?」参照)は、実は、イスラエル・パレスチナ問題の本質を捉えるために、非常に重要な手がかりとなります。なぜなら、「ユダヤ人は、古くからイスラム教徒と共に生きてきた」という事実が、それによって物語られているからです。
パレスチナ・イスラエル紛争に関連して、よく誤解されるのは、「ユダヤ人とアラブ人は、数千年の歴史の中で、常に争い、敵視しあってきた」という認識ですが、事実はその逆です。ユダヤ人が、アラブ世界で迫害されたという歴史的な事実は、よほど注意深く探さなければ存在しません。しかしながらその一方で、ユダヤ人がキリスト教世界から受けた迫害は枚挙に暇がなく、その差は歴然としています。つまり、ユダヤ人を常に迫害し続けてきたのはキリスト教徒たちであり、イスラム世界は長い間、迫害されたユダヤ人の安住の地だったのです。このことを理解するために、少しユダヤ人の歴史を概観してみましょう。
2.ユダヤ人の歴史
ユダヤ人がカナンの地(現在のイスラエル近辺)に移住してきたのは紀元前18世紀、アブラハム率いるユダヤ人の一団が、唯一神ヤハウェの啓示にしたがってメソポタミアの町ウルを出て、現在のナブルスに至ったときとされています。
その後、アブラハムの孫、ヨセフの時代にエジプトに移住したユダヤ人は、奴隷として数世紀にわたる苦難を経験した後、モーゼに率いられてエジプトを後にし、紀元前13世紀に再びカナンの土地に帰還。そして、イスラエル12支族全体の王となったダビデがエルサレムを陥落させ、古代イスラエル王国の基礎を築いたのが紀元前10世紀ということになります。
しかし、イスラエル王国の寿命は、さほど長くはありませんでした。ダビデの子ソロモンの時代に絶頂期を迎えたイスラエル王国は、彼の死後南北に分裂し、北の「北イスラエル王国」は、紀元前7212年にアッシリアによって滅ぼされ、エルサレムを中心とする南の「ユダ王国」も、紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザルによって滅ぼされる事になります。このとき、多くのユダヤ人がバビロンに労働者として連行されたことは、「バビロン捕囚」としてご存知の方も多いかと思います。
ですから、ユダヤ人が国を築いたのは、現在のイスラエルを除くと、後にも先にも、基本的にこのイスラエル王国以外には存在しません。しかも、統一した王国が存続した期間はダビデとソロモンの親子二代のみですし、分裂した王国の存続期間も、たかが知れているのです。それでは一体、ユダヤ人をイスラエルの土地にそこまで固執させるものは何なのでしょうか?
ユダヤ人と他の民族とを明確に区別し得る最大の要因は、唯一神ヤハウェとの契約でしょう。唯一神ヤハウェは、アブラハムとの契約の中で、「汝と汝の子孫とにこの土地(カナン)を永久に与えよう。そして我は彼らの神とならん」と預言したのですが、この「神との契約」が、常にユダヤ人の存続理由であって、またユダヤ人がかくも「約束の土地」に固執する根拠となっているのです。
国が滅び、バビロンに強制的に連行されたユダヤ人が、民族としてのアイデンティティーを失わなかったのは、「神を信じること」と、「約束の地」に帰ることが表裏一体であるという、ユダヤ教独特の契約の思想が根底に存在するゆえでした。そして、「神との契約」という思想は、その後現在に至るまで、いかなる迫害を受けようとも、ユダヤ人の中に生き続ける、強固な信念となったのです。
さて、紀元前538年、新バビロニアがペルシャ帝国に滅ぼされると、神との約束の期限到来とばかり、ユダヤ人は、旧イスラエル王国領内に帰還します。彼らはそこで、破壊された神殿を再構築し、紀元前63年にローマの属領となるまでペルシャ帝国の自治領としての生活を再開します。
旧イスラエル王国領は、その後ローマの支配に入りますが、ユダヤ人はそれに対する抵抗運動を開始。特に「ユダヤ戦争」と呼ばれる反ローマ紛争は、66年から7年間にわたって続きローマ軍を悩ませました。多勢に無勢のユダヤ人は最終的にローマ軍に屈することになりますが、最後まで抵抗を試みたユダヤ人の一部は、死海のほとりにある天然の要塞(マサダの要塞)に立てこもり、絶望的な篭城の後、全員刺し違えて自決を図ります。これは、イスラエル建国後、愛国心を代表する逸話として現在まで語り継がれている逸話です。
ユダヤ戦争中、エルサレムは徹底的に破壊されました。ユダヤ人の多くは戦闘で死に、生き残ったものは奴隷として売られ、破壊の限りを尽くされたヤハウェの神殿も、その後再建されることなく、ただその壁の一部(嘆きの壁)が残るのみとなりました。神殿を失い、「約束の地」を追われたユダヤ人は、以後、世界各国に散らばり、離散(ディアスポラ)の民としての放浪を余儀なくされることになります。
さて、西暦72年のユダヤ戦争敗北、そしてローマ軍による徹底的なエルサレム破壊の後、ユダヤ人は奴隷となるか、ローマの支配を嫌って自発的にカナンの地を離れるかの選択を迫られましたが、いずれにしても「約束の土地」に居座る者は少数派でした。彼らの一部は、イラクからペルシャを経由して中国に至る当時の交易路を伝い、また一部はエジプトを超え、当時ローマ帝国の影響をあまり受けていなかった北アフリカへと放浪の生活を始めることになります。
特に9世紀以後は、ユダヤ教徒の庇護者でもあったイスラム勢力の拡大にともなって、ユダヤ人も次第にヨーロッパへと足を運ぶようになりました。中でも、タール将軍とともに「タールの山(ジャバルッ・タール=シブラルタル)」を超えてイベリア半島に住み着いたユダヤ人は、その地で商業、手工業の担い手となっていったのです。彼らの経済基盤は磐石で、1492年のレコンキスタと、それに続く非キリスト教徒の迫害によって、多くのユダヤ人がイベリアの地を追放された後には、経済基盤を失ったスペイン経済がしばらく停滞せざるを得なかったほどでした。
さて、レコンキスタでイベリア半島を追放されたユダヤ人が庇護を求めたのも、イスラム教の盟主オスマントルコ帝国でした。オスマントルコは、ユダヤ人、アルメニア人、ギリシャ正教徒など、非イスラム信徒を保護するため、「ミレット」という共同体を作り、それぞれに自治を任すなど、宗教政策には非常に寛大だったのです。
当時、中央ヨーロッパに居住していたユダヤ人、つまりアシュケナディムの一部は、バルカン半島の諸都市に点在していましたが、彼らの中にも、キリスト教世界の偏狭性から逃れて自発的にオスマン帝国に移住するものが現れました。こうして、イスラム教徒とユダヤ教徒の共存は、ごく最近まで続いていたのです。
3.迫害の歴史
イスラエルの土地を離れ、世界中に離散していったユダヤ人にとって、最大の敵はキリスト教徒でした。ユダヤ人などの非イスラム信徒を保護するため、「ミレット」という共同体を作り、それぞれに自治を任すなど、宗教には非常に寛大な政策をとってきたイスラム教の盟主オスマン・トルコとは対照的に、ヨーロッパ・キリスト教世界では、ユダヤ教徒に対する宗教上の反目を根底に、ユダヤ人を迫害していきます。
「邪悪な宗教」を奉じるユダヤ人をゲットー(ユダヤ人居住区)に押し込め、キリスト教徒との接触を制限し、外出の際には「ダビデの星」を携帯するように仕向け、果ては、なりふりかまわぬ虐殺を繰り返したのは、実はアドルフ・ヒトラーの専売特許ではありません。ヒトラーが、あまりにも悪名高いユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を実行に移す、1500年以上も前から、実はキリスト教徒のユダヤ人迫害の下地は整っていたのです。
以下は、キリスト教徒によるユダヤ人迫害の根拠となった新約聖書の中の一節です:
「神があなたがた(傍点)の父であるならば、あなたがたは私を愛するはずである....(中略)あなたがた(傍点)は、悪魔の父から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は、はじめから人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼が偽りを言うとき、いつも、自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」(ヨハネによる福音書8:42-44)
もちろん、同福音書の第8章を通読した人は、本文中で使われている「あなたがた」が、ユダヤ人全体を指すものではなく、イエスを落とし入れようとして議論を挑んだ一部のユダヤ人(パリサイ人)に限定されることに気付くはずです。しかし、あくまでもユダヤ教を異端とし、徹底的に排除しようとしたキリスト教の聖職者たちは、ユダヤ教弾圧のために、好んでこの部分を用い、信徒にユダヤ教の異端性を教育していったわけです。
キリスト教徒によるユダヤ人迫害の下地は、ローマ帝国がキリスト教(厳密に言うとローマ正教)を唯一の国教と定めた325年以降、決定的となりました。ユダヤ人はキリスト教徒との接触を限定されたばかりでなく、ユダヤ会堂(シナゴーグ)の建設はおろか、布教も禁止されました。
ユダヤ人が当初、宗教的理由でキリスト教徒には禁止されていた商取引や、高利貸しの分野に進出して、財力で自らを守ろうとしたのは、キリスト教社会から疎外され、ゲットーに追いやられた彼らがたどり着いた当然の帰結だったのかもしれません。
ところが、当時「卑しい」と考えられていたこれらの職は、各地で驚くほどの盛況を呈しました。団結力に優れ、また離散したユダヤ人同士のネットワークを、うまく商取引に結びつけた彼らは、徐々にヨーロッパ諸国の商業、流通、および金融の中核として、なくてはならない存在となっていったのです。
一方のキリスト教社会は、そんな彼らの成功を見過ごすはずもありませんでした。特に、キリスト教社会で本格的な商業活動が芽生え出す中世ヨーロッパにおいて、ユダヤ人は「悪魔の子」という宗教的理由付けとともに、商人にとっては一方的に排除すべき最大の商売敵に、そして庶民にとっては妬みと嫉妬の対象となって行ったのです。こうして、当初散発的だったユダヤ人の殺戮は、次第に大規模に組織化されて行くことになります。
4.十字軍の裏の目的
ユダヤ人に対する大規模な迫害の口火は十字軍時代に切られました。十字軍というと、「キリスト教徒がイスラム教徒によって奪われた土地を奪還するための戦い」というイメージが強いと思いますが、1096年に始まった第一回十字軍の目標の一つが、実はライン河地方で集団生活を送っていたユダヤ人の粛清でした。第二回十字軍では、北部フランス地方のユダヤ人が殺戮の対象となり、第三回十字軍ではイギリスでユダヤ人の大量虐殺が記録されています。つまり、十字軍は、イスラム教徒に対してだけではなく、ユダヤ人に対しても同様に行われていたのです。
さらには1215年の宗教公会議以降、ユダヤ人は不信仰の民と定義され、外出の際には「ダビデの星」を身につけることを強要されました。ユダヤ人に対する飽くなき弾圧は、1290年(イギリス)、1306年(フランス)、そして1492年(スペイン)のユダヤ人追放令にまでエスカレートして行き、20世紀には、これがヒトラーの組織的ユダヤ人迫害にまでつながって行くことになるのです。
一方、東欧諸国では、ユダヤ人の商業活動を保護することで自国の資金調達をまかなっていた国が多かったため、15世紀まで、ユダヤ人に対する宗教的迫害は比較的少なかったのですが、17世紀にはポーランドで数万人規模のユダヤ人虐殺事件が起こるなど、ユダヤ人迫害は次第に東欧諸国の間にも浸透して行き、19世紀までに、ほぼヨーロッパ全土に広がって行ったのです。
現在、ユダヤ人に対する迫害というと、その罪をヒトラーが一人で背負っているという格好ですが、実際には、ユダヤ人に対する迫害は、数世紀にわたってキリスト教社会全体が犯した過ちであるという認識が必要で、数百万の犠牲者を出したとも言われるヒトラーのホロコーストも、その延長上に位置付けされるべきでしょう。
そして、長い迫害の歴史の中で、常に孤立し、迫害の対象となりつづけたユダヤ人が、自らの存続のために立ちあがったのは、ごくごく最近のことだったのです。
5.シオニズムから建国へ
キリスト教世界から目の敵にされ、度重なる迫害の歴史を経験したユダヤ人は、次第に自己防衛の一つの手段として、ある選択を迫られるようになります。それは、迫害を恐れず、あくまでユダヤ人とし生き抜くか、またはユダヤ人としての表向きのアイデンティティーを捨て、フランス人やドイツ人と同化するかのいずれかという苦渋の選択でした。19世紀の後半、多くのユダヤ人は後者を選択しました。つまり、自らのアイデンティティーを捨て、現地の国民と「同化」することで、「永遠の弱者」からの脱却を図ったのです。19世紀後半に急速に進んだ、この「同化」の波はしかし、ある事件をきっかけとして意外な展開をたどる事になります。1894年に起こったドレフュス事件です。
同年、フランス軍砲兵大尉だったドレフュス氏は、軍の機密漏洩疑惑で軍法裁判を受けますが、法廷では彼に有利な証拠がすべて却下され、圧倒的な有罪判決となります。問題は、このドレフュス氏がユダヤ人だったということでした。
ドレフュス氏は、ユダヤ人でありながらフランス軍の大尉にまで昇格したわけですから、いわば「同化」ユダヤ人の成功例でした。しかし、彼がユダヤ人と見て取るや否や、当時のマスコミは例外なく反ユダヤの論調を連日掲載。結果として、ドレフュスの冤罪を演出したのでした。『私は弾劾する』という著書で、ユダヤ人に対する社会的偏見が、事件の事実関係をゆがめたと主張した作家エミール・ゾラなどの良識的な意見は、反ユダヤ主義の罵声の中にあって黙殺されたのです。
さて、このドレフュス事件は、ある大きな歴史的運動をおこすきっかけとなります。当時、ジャーナリストとしてこのドレフュス事件の一部始終を取材し、大いなる危機感をもつに至ったユダヤ人が、テオドール・ヘルツルでしたが、彼は後にシオニズム運動の父と呼ばれることになるのです。
ヘルツルは、当時「同化」によって民族的迫害を逃れようとした多くのユダヤ人の行動が幻想に過ぎないことを、このドレフュス事件を通じて痛感します。そして「ユダヤ人が迫害されるのは、我々が国家を持たない民族だからである。いかに同化が進もうとも、結局、ユダヤ人はユダヤ人である限り、迫害の対象からは逃れ得ない」という強い信念のもと、その半生をユダヤ人国家の建設のために尽くすことになるのです。
ドレフュス事件から2年後の1896年、ヘルツルは『ユダヤ人国家』という小冊子を発行。翌年には、スイスのバーゼルで、第一回シオニスト会議を開催します。会議では「パレスチナの地に、ユダヤ民族のための、公的な法によって保障された領土を創設することを目的」とした、いわゆる「バーゼル綱領」が採択され、同時に、世界シオニスト機構の設置が確認され、「神との約束の地」であるシオン(エルサレム)にユダヤ人国家を建設するというシオニズム運動が幕を開けます。
しかし、シオニズム運動が現実味を帯びてくるのは、1930年代後半になってからでした。ヘルツルの呼びかけに応じ、またロスチャイルド家などの支援を受けて実際にパレスチナの地に移住したユダヤ人の数は、第一次世界大戦が始まった1914年当時で約8万5千人に過ぎませんでした。1930年代中旬にはその数が16万人に増えますが、それでもパレスチナのアラブ人口の2割に満たない少数派だったのです。
土地の所有率に関しても、ユダヤ人が取得した土地は、1914年時点でパレスチナ全土の2%、1930年代後半にも5.7%に到達するのがやっとで、とても国家を樹立し得るレベルには至っていなかったのです。
シオニスト会議も、遅々として進まない「聖地帰還」を目の当たりにして揺れ動き、一時は、ユダヤ人の国家建設をウガンダで行うという代替案が真剣に議論された時期もありました。そんな中で起こったのが、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)だったのです。
ホロコーストは、国家樹立を目指すシオニストにとっては、悲報でもあり、吉報でもありました。全体で600万人ものユダヤ人が犠牲になったとされている、このホロコーストの全体像が明らかになるにつれ、欧米ではユダヤ人に対する同情心が芽生え、同時に、シオニズム運動も、西欧における「ユダヤ人問題の最終的な打開策」としてもてはやされ出したのです。ホロコーストは同時に、シオニスト側が欧米政府に対する働きかけを強める、絶好の理由付けともなりました。
その一方で、シオニストは当時パレスチナを委任統治していたイギリスに対し、その統治機能の妨害を目的に、テロを含むさまざまな工作を執拗に展開。最終的にはパレスチナにおけるイギリス委任統治機関の撤退を促すことに成功します。1947年、イギリスはパレスチナからの撤退を公式に宣言。ユダヤ人国家樹立にまつわる諸問題を、国連の手にゆだねることになったのです。それを受けた国連は同年、パレスチナをアラブとユダヤの二つの国に分割するという妥協案、いわゆるパレスチナ分割決議案を総会にかけます。結果は、賛成33、反対13、棄権10。イスラエル国家の独立が、他国の多数決で決定された瞬間でした。別の表現をすると、イスラエルは、ユダヤ人に対するキリスト教社会の償いの表現として、国連での多数決でパレスチナの土地を分割して出来た国家ということです。
こうして1948年5月14日、「神の約束」を唯一の頼みとして、十数世紀にわたって度重なる迫害に耐えたユダヤ人の念願が成就。新生イスラエル国が産声を上げたわけでした。そして、これは同時に、迫害の被害者が、加害者に豹変した瞬間でもあったのです。
6.イスラエル・パレスチナ紛争の幕開け
1947年11月、国連でパレスチナ分割決議案が採択されると、それに反対するアラブ諸国は、ユダヤ人国家の樹立を実力で阻止することを宣言し、アラブ解放軍を組織。48年5月1日、独立宣言に湧き上がるイスラエルに進軍します。以後、半世紀にわたって続くことになる、イスラエル・アラブ紛争の幕開けでした。
通常「第一次中東戦争」と呼ばれるこの戦争は、イスラエルによって、後に「独立戦争」と名付けられました。数的にも装備的にも、圧倒的に不利な立場にあったイスラエルは、逆に多国籍からなるアラブ解放軍を寸断することに成功し、結果的に独立時の国土よりも広い土地を手中に収めたのです。ユダヤ人はこの勝利に酔いしれ、「約束の土地」に対する神の加護を確信することになります。
一方、戦火を逃れて周辺アラブ諸国に避難した数十万人のパレスチナ人は、イスラエル側から再入国を拒否され、以後、「土地のない民」として難民生活を余儀なくされることになり、ここにパレスチナ問題が始まることになるのです。