イエメン共和国

出典:外務省HP

1. モカ・マタリの国、イエメン

 コーヒー好きの皆様、コーヒーの原産地がイエメンの対岸のエチオピアだったことはご存じでしょう。いわゆるモカ・コーヒーがそれですが、伝説によると、ある日エチオピアの山岳地帯でヤギを放牧していたカルディーという名の少年が、ある場所に羊を連れて行くと、とても元気に飛び跳ねることを発見。そのことを修道僧に相談して調べてみると、そこには赤い木の実を食べるヤギの姿がありました。修道僧は、その実を煎じて徹夜修行をする修道僧の眠気覚ましに使ったという言い伝えです。

 その赤い木の実が、原生コーヒーだったわけですが、アラブの商人はその苗をイエメンにも植えて栽培。こうして出来たエチオピアとイエメンのコーヒーは、イエメンのモカ港に集められてから出荷されました。これがモカ・コーヒーです。そのうち、イエメンの高地で栽培された高級豆は、特にモカ・マタリと呼ばれます。これで「コーヒールンバ」を思い出したあなたは、ある一定年齢以上の方ですね。

 エチオピアでは、生の豆を煮出して飲む習慣が古くからあったそうですが、アラブ世界では早くからコーヒー豆を炒って、細かく挽いて煮出して飲む風習が広がりました。7世紀にイスラム教がアラブ世界に浸透したとき、「汝、飲むなかれ」というコーランの一節に対し、「果たしてコーヒーは飲んでいいのか否か」という論争が巻き起こったことがありましたが、コーヒーは、それほどアラブ世界に浸透していたのです。

 コーヒーを飲む風習がヨーロッパに広がったのはそれよりもっと後で、オスマントルコ帝国がハプスブルク家のオーストリアと戦っていた時代、トルコ軍が敗退した後に残された香りの良い豆を戦利品として没収。改良して「ウインナー・コーヒー」にしたのが始まりです。またフランスのクロワッサンは、イスラム軍のシンボルであった三日月に似せたパンを、戦利品のコーヒーと一緒に飲み食いするという、一種のあやかり商品が定着したものとも言われています。もちろん、現在、コーヒー生産の中心地は南米に移動していますが、コーヒーの語源がアラビア語の「カファウェー」であることなどからもわかるようにコーヒーとイエメンとアラブ世界は切っても切れない仲なのです。

2.イエメンの歴史を簡単に教えて下さい。

 さて、イエメンというと、もう一つ有名なのがシバ王国(紀元前950―115年)です。イスラエル王国のソロモン王の時代と同時代に栄えた王国で、シバの女王や巨大なマーリブ・ダムの伝説、エデンの園など、イエメンには未だ解き明かされていない謎が数多く残されています。

 イエメンの気候は、赤道直下の熱帯(沿岸地域)から高度3000メートルの高原地帯を中心とする温帯とに分かれ、雨季も一年に2回ありますから、われわれが想い抱くアラビアのイメージとはかけ離れた、樹木が茂り、農業が盛んな土地です。また、古代から北部イエメンの中心は3000メートル級の山に囲まれた盆地の中に建設されていたため、欧米列強の植民地となった経験はありません。

 イエメンはまた、インド洋とヨーロッパをむすぶ貿易の中継地として古くから栄え、その繁栄を古代ローマ人は「奇跡のアラビア」と呼んだほどです。しかしながら、最大の貿易相手国だったエジプトが凋落し、15世紀にはヨーロッパ人がインド洋航路を発見し、アラビア半島を経由しなくなったために、中継貿易地としてのイエメンの地位は低下してしまいました。

 イエメンは1538年から100年間、オスマントルコの支配を受けますが、一時それを撃退。しかし1871年に再びオスマントルコの軍門に下ってしまいます。一方で、東西貿易の中継港だったアデンが1839年にイギリスに割譲され、イエメンはオスマントルコの支配する北イエメンと、イギリスが支配する南イエメンとに分断されることになります。

3.南北イエメンの歴史

【北イエメン】

 北イエメンでは1918年、第一次世界大戦によるオスマントルコの敗退を機に独立し、イエメン王国が誕生します。イエメン王国の特徴は、その指導者がイスラム教ザイド派であることです。ザイド派は、892年、預言者ムハンマドの末裔とされるヤヒヤー・アッラーシーという人を部族抗争の調停者として招き、彼を初代の宗教指導者(イマーム)としたことが始まりですから、ザイド派はイエメン北部の一部以外には普及していません。1918年にイエメン王国が誕生した際にも、ザイド派のイマームが支配者として君臨したわけですが、二代にわたる鎖国的な独裁政治に嫌気のさした国民は、62年、若手将校による革命という形で蜂起します。

 これが単なる内戦だったら良かったのですが、余計なお客が割り込んで来ます。一方は、王制を支持するサウジアラビアとイギリス、もう一方は共和制を支持するエジプトとソ連です。これら王制派と共和制派は、一進一退の内戦を続け(北イエメン内戦)、8年後の1970年に共和制派が勝利を収める形で終了。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)が成立しました。

【南イエメン】

 一方1839年にアデンをはじめとするイエメン南部を占領したイギリスは、この地を1869年にアデン保護領として90年以上統治しますが、北イエメンで内戦が勃発した翌年の63年、ソ連の影響を受ける社会主義系の反英武装闘争が始まります。民族解放戦線(NFL)を筆頭とする左翼の武装組織は4年間でイギリスをアデンから撤退させることに成功し、1967年、南イエメンはソ連の影響を強く受けた中東で唯一の共産主義国家である南イエメン人民共和国として独立を果たします。

4.イエメン共和国成立から内戦まで

 さて、これら南北イエメン両者は、1988年から歩み寄りを見せ、1990年5月、湾岸戦争の二ヶ月前に統一されて、現在のイエメン共和国として再出発します。初代大統領は北イエメンのサーレハ大統領が就任したのですが、サーレハ大統領率いる国民全体会議(GPC、旧北イエメン系)と、ビード副大統領のイエメン社会党(YSP、旧南イエメン系)は経済政策などで再三対立して、結局94年、両者の戦車隊が激突する内戦に突入します。数万人の死者を出したといわれるこの内戦の結果、旧北側のGPCが圧勝して、99年には南北統一以来初の直接選挙による大統領選を実施。ここでもGPCのサーレハ大統領が96.2%の得票率で再選されました。2000年には大統領の権限を強化する新憲法が国会で可決され、サーレハ大統領の地盤固めは終了したものと思われましたが、イエメンの安定にはさらなる試練が待ち受けていました。
 2011年、アラブの春と呼ばれた中東世界の民主化運動がイエメンにも飛び火して、反政府運動が暴徒化。これによってサーレハ大統領が退陣を決意。ハーディー副大統領に権限を委譲するという騒ぎがありました。この内乱状態に拍車をかけたのがイスラム教シーア派の武装組織フーシでした。

2015年、フーシ派はクーデターでハーディー暫定大統領を国外に追放して議会を解散。大統領評議会を開設して政権の掌握を宣言しました。一方のハーディー大統領はサウジアラビアに逃れ、以後サウジアラビアとアラブ首長国連邦の支援を受けて武力で権力の回復を試みています。これを2015年内戦と呼びます。

 さて、この内戦には、湾岸諸国の国内事情が深く絡んでいます。サウジアラビア、アラブ首長国連邦など湾岸諸国のほとんどは、少数派のスンニー派イスラム教徒が多数派のイスラムシーア派住民を支配する構造になっています。シーア派の総本山はイランですが、湾岸諸国は歴史的にイランの影響を避けるために闘ってきた経緯があるのです。イラン・イラク戦争当時、イラクのサダム・フセインに協力してイランの進出を食い止めようとしたのも、湾岸諸国へのシーア派の影響を食い止めるためでした。

 よって、シーア派の武装組織がスンニー派の政権を転覆するというイエメンの状況は、明日は我が身の湾岸諸国にとって悪夢以外の何物でもなかったわけです。さらには、イランがフーシ派に長距離ミサイルを含む軍事支援を行っている状況は、まさにイランと湾岸諸国の代理戦争といっていいでしょう。サウジアラビアの容赦ない空爆や、アラブ首長国連邦の積極的な武器供与は、イエメン国内で5万人の死傷者と200万人以上の国内避難民を出し、1400万人が飢餓状態になるという最悪の状況を経て今なお継続中ですが、この内戦の底にはこの戦いに意地でも勝たなければならない湾岸諸国の事情が見え隠れします。

5.イエメン内戦の現状

 2015年以来2020年現在も継続しています。当初、サウジアラビアやアラブ首長国連邦を中心とする有志連合軍は度重なる空爆と武器供与でイエメン国内の南部の失地を回復。徐々に全土の掌握に向けた軍事行動を展開しますが、ここで内部分裂とも呼べる動きがありました。

 失地の回復を試みるハーディー暫定大統領は、もともとは北イエメンの代表。ソ連の後押しで独立した南部イエメンの共産勢力とは政治的に相いれないものでしたから、南北統合してイエメン共和国になった1990年以降、前南イエメン勢力と前北イエメン勢力は互いに反目しあってきたのです。ですから、フーシ派への反撃が始まり、南部イエメンの拠点が回復された2019年、南イエメンの再独立を唱える一派がアラブ首長国連邦の支援を受け、ハーディー暫定大統領との協力関係を放棄してしまいます。これによって、イエメン内戦はフーシ派、ハーディー暫定大統領派、それに南部の分離独立派という三つ巴の争いになりましたが、さすがに内部分裂はいかがなものかということで2019年末にはハーディー暫定政権側と南部分離独立派が和解に合意。再び共同でフーシ派撲滅に協力することとなりましたが、実際、フーシ派が制圧されたとしても、次はハーディー暫定政権側と南部の独立派の対立が表面化するのは見えており、イエメン内戦は予断を許さない状況です。

 一方、フーシ派の反撃も、国境を越えて行われるようになり、2017年ごろからサウジアラビアの首都リアドに弾道ミサイルを発射したり、紅海を航行するサウジのタンカーを攻撃したりするなどして緊張が高まりました。2019年にはサウジ国営石油会社のサウジアラムコの施設2か所がフーシ派のドローン攻撃を受けるなどしています。

 なお、2020年の4月以降、新コロナウィルスの感染拡大のためイエメン内戦は一時停止しています。戦争も停止させるコロナウィルス、恐るべし。

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