アルゼンチン共和国

出典:外務省HP

1.独立後のアルゼンチンの歴史を教えてください。

 1810年に独立を達成したアルゼンチンでは、誰が実権をとるかでもめて、実質的な統一国家と呼べるまでには、何と50年の歳月が必要でした。

 そんな中、アルゼンチンの混乱のすきに乗じて1821年、ブラジルのポルトガル勢力がウルグアイに侵攻。ウルグアイがポルトガル領に編入されてしまいます。1822年にポルトガルから独立するブラジルは、ウルグアイを引き続きブラジルの一部として統治しますが、いくら反目し合っているウルグアイでも、もともとは同じ副王領の仲間です。黙って見捨てるわけには行かないということで、アルゼンチンは1825年からウルグアイの独立運動への支援を開始。このことが1826年から2年間にわたるブラジルとの直接戦争に発展しました(「ウルグアイ東方共和国」参照)。

 この戦争に勝利したアルゼンチンではありましたが、国内の分裂状態に変化は無く、40年代にはその隙をついたイギリスとフランスに、軍事干渉を受けました。しかし、これらの介入にもしぶとく反撃して独立を保ったあたりは、運の良いところです。

 さて、アルゼンチンのアルゼンチンらしい時代は、1862年のミトレ大統領の登場によって始まります。軍人出身のミトレ大統領は、国内の対立諸派をなだめつつ、アルゼンチンを一つの国家としてまとめあげることに成功。また、1864年から6年間続いたパラグアイ戦争(「パラグアイ共和国」参照)で陣頭指揮をとった同大統領は、国民の信頼も勝ち得て、以後、アルゼンチンは長期の安定期に入ります。

 ミトレ大統領以降、歴代大統領は牧畜の振興に力を注ぎ、同時に、農牧業に携わる人口の拡大を目指して、積極的な移民受け入れ政策を取りました。結果、19世紀末にはアルゼンチンの人口は急増し、それにつれて、内陸部の開発も急速に拡大。特に農牧業は目覚しい発展を遂げて、20世紀には世界有数の農畜産物輸出国になります。

2.アルゼンチンを舞台にした映画「エビータ」は、誰のこと?

 こうして、20世紀初頭までは順調な経済発展を遂げ、1929年には世界5位の富裕国となったアルゼンチンでしたが、1929年の世界大恐慌で、一次産品の価格が暴落。経済のほとんどを農畜産物の輸出に頼っていたアルゼンチンは、その影響をまともに受けてしまい、長く安定を保ってきたアルゼンチンの政治も混乱しはじめます。

 まず1930年、クーデターによりにファシズムを目指した軍政がしかれ、それがつぶれると32年からはイギリスと密接にからんだ保守派の民政が幅を利かすようになります。一部の特権階級がイギリスの権益と絡んで国の方向を誤らせたと感じた国民は、1930年代を「忌まわしい10年間」と呼んで、43年にクーデターを起こしたペロン大佐を熱狂的に支持します。ペロン大佐は、保守派政権のもとで抑圧されていた労働者を保護する政策を打ち出し、国民の圧倒的支持を得て、46年の選挙で大統領に選ばれます。

 このペロン大統領の夫人が、「エビータ」の主人公のモデルになった、マリア・エバ・ペロンです。孤児として不運な少女生活を送ったエバは、恋仲に落ちた当時のペロン大佐に、労働者の悲惨な実態を訴えかけ、労働者による数々の要求を仲介。これを次々に受け、改革を断行したペロン氏に対する国民の信頼は高まり、同氏は国民の圧倒的な支持を得て大統領に就任するのです。ペロン氏の大統領就任後、エバ夫人は慈善団体を組織して貧困層の救済に力を入れ、国民から長く愛される存在となりました。ミュージカル「エビータ」の中で歌われる「Don't cry for me Argentina」は余りにも有名。

3.アルゼンチンは、長い間軍事政権だったと聞きますが

 1946年に発足したペロン政権は、アルゼンチンの工業化や労働者保護を重点課題として、中間層に対する優遇政策を取ったため、富裕層で構成される保守派と軍はこれに反発。55年のクーデターで国外に追放されてしまいます。

 その後アルゼンチンはペロン前大統領の政策を支持する中間層(ペロニスタ)と、軍を含む特権階級の利権を代表する反ペロニスタとの対立で、国内が不安定になりました。こんなときには、鉄砲を持っている軍のほうが勝つもので、58年、62年に選出されたペルニストの大統領は、ことごとく軍部によってつぶされ、アルゼンチンは、66年から軍政に突入するのです。

 アルゼンチンの軍政は、短命に終わった第三次ペロン内閣(73年)などの例外を除き、以後、基本的に1983年まで続き、その間、労働者とペロニスタは徹底的に弾圧され、約1万人の行方不明者が出たとされます。

 軍政権は、対外的にも強攻策を取り、1982年にはフォークランド島の所有権を巡り、イギリスと直接の軍事衝突を引き起こしました。この間、対米関係も悪化し、アルゼンチンは、世界的に孤立してしまった感がありました。

 このような軍政の失態に、国民が黙っているわけがありません。最後の軍政となったビニョーネ将軍は、民衆の退陣要求に屈し、1983年に選挙を行って、国民の選択を仰ぎました。この選挙で大勝したアルフォンシン大統領によって、長期にわたって続いた軍政は幕を閉じ、久しぶりの民政が復活。現在まで続いています。

 ただし、民政に移管したからと言って、急に経済が好転するわけではありません。アルフォンシン大統領も、1989年にそれを引き継いだカルロス・メネム大統領も、高度なインフレと累積債務の問題の解決に躍起になって取り組みましたが、なかなか成果は上がりませんでした。メネム政権は、アルゼンチン通貨ペソと米ドルを一定枠内で固定する(ドルペッグ))といった大胆な通貨政策を導入しましたが、結局破綻。1999年メネム政権の任期切れに伴う選挙で大統領に選出されたデラルア大統領もなすすべがなく、2001年には債務不履行となり、アルゼンチン経済は破綻します。

 経済が破綻したアルゼンチンでは混乱が続き、2003年に就任したキルチネル大統領のもとで、やっと落ち着きを取り戻します。キルチネル大統領の堅実な経済運営は2007年、選挙による初の女性大統領となった妻のクリスティーナ・キルチネル大統領に引き継がれ、成長率も8%台に乗せるなど、順調な経済運営が繰り広げられていたその時、米国のヘッジファンドが、2001年にアルゼンチン政府が踏み倒した債務の全額返済を要求して訴訟を起こし、米国連邦最高裁判所がその主張を認めるという事件が発生。つまり、アルゼンチン政府が踏み倒した借金を、個人が請求することは違法ではないという判決が下ったのです。結局アルゼンチン政府は2014年、再び債務不履行を宣言。翌年の選挙では新しい経済政策を打ち出したマクリ大統領に政権を奪われることになりました。

 マクリ大統領はキルチネル大統領がとった富の再配分という政策を否定。社会保障費の削減と緊縮経済が経済を停滞させ、アルゼンチンは再び債務不履行の危機に陥りました。そんな中、マクリ大統領が個人資産を隠して税金対策をしていたとする、いわゆるパナマ文書が暴露され、反政府デモに発展しました。

 2019年には、そんなマクリ大統領に代わって左派のフェルナンデス大統領が当選しましたが、新型コロナウイルスによる経済停滞を受けて、再び債務不履行の状態が続いています。

戻る