アルジェリア民主人民共和国

出典:外務省HP

1.アルジェリアの歴史を教えてください。

 かつてカルタゴの支配下に置かれたアルジェリアは、ローマの支配を経て8世紀にイスラム化しますが、内陸にはルスタム朝という一風変わった王朝が栄えます。ルスタム朝の創始者のルスタムはペルシャ出身の人物です。それだけでも北アフリカでは珍しいのですが、宗教がまた変わっています。イスラム教にはスンニー派とシーア派があるのはご存じのとおりですが、そのほかにも分派があり、ルスタム朝ではイバード派と呼ばれる宗派を信奉していました。イバード派は、イスラム教がスンニー派、シーア派に分かれる以前に布教を開始した分離主義者の教えで、現在イバード派イスラム教徒が存在するのはアルジェリアのほかにはチュニジアの一部とオマーン国など非常に限られた地域です。

 ルスタム王朝は8世紀から9世紀にかけて全盛期を迎え、西はモロッコ、南はサハラ以南の黒人社会、東はエジプトに至る陸路を支配下におさめていましたが、909年にファーティマ朝に敗れ、王朝は崩壊します。

 さて、1533年にオスマン帝国の支配下に置かれたアルジェリアでは、当時地中海の海上覇権を握っていた海賊バルバロッサがアルジェを中心に活動していました。これら海賊の本拠地は現在のアルジェリア、チュニジア、リビアにまたがる地域で、一般にバルバリア諸国と呼ばれており、オスマン帝国の支配下でありながら独立採算制を維持する半独立国家群でした。これらバルバリア海賊は地中海貿易に従事する商船から通行料を取ることで財政を賄っていましたが、強大なバルバリア海賊の前に抵抗できる者はいませんでした。

2.バルバリア海賊の崩壊とフランスの進出

 そのバルバリア海賊に初めて挑戦したのがアメリカでした。アメリカは建国以来積極的に旧大陸との交易を進め、特に地中海交易は大きな利益を生み出しました。そこで、当初はバルバリア海賊に通行量を支払っていたのですが、次第に自前の護衛艦隊で海賊を撃退するようになり、通行料も支払わなくなりました。それを不服としたバルバリア海賊が1801年にアメリカ艦隊に宣戦布告。戦いは一進一退の攻防を続け(第一次~第三次バーバリー戦争)、1805年6月、ついにトリポリ総督が敗北を受け入れるまで続きました。

 ちなみに、圧倒的劣勢を跳ね返してバルバリア海賊の根拠地であるトリポリの要塞を陥落させ、アメリカを勝利に導いたダーネの戦いは、アメリカ海兵隊が初めての海外派遣で収めた勝利として名を残し、現在でも歌い継がれる海兵隊賛歌には、「モンテズマの間からトリポリの海岸まで」という一節がうたわれています。

 アメリカのバーバリー海賊撃破という快挙に勇気づけられたヨーロッパ諸国は反撃に出ます。アルジェリアの海賊は、地中海貿易で通行料を払わないキリスト教徒を奴隷にしていましたが、1816年、イギリス海軍は囚われの身となっている奴隷解放のためにアルジェ港を砲撃。1817年に奴隷を開放することに成功します。

 ついで1830年にはフランスが力の衰えたアルジェリアに侵攻してアルジェを占領。1847年にはアルジェリア全土がフランスの支配下に置かれ、フランス人を始め、多くの欧州人が入植します。第一次世界大戦中の1916年にはアルジェリア初の抵抗運動がアガデスで展開され、第一次大戦以降の独立運動に引き継がれていきます。

 第二次世界大戦中、アルジェリアのフランス人社会は、ドイツの傀儡となったフランスのヴィシー政権を非難したり、シャルルドゴール率いるフランス共和国臨時政府がアルジェで結成されたりしましたが、現地のアルジェリア人にはあまり関係のない話で、第二次世界大戦が終わると再び独立運動が激化します。特に1954年に起こったアルジェリア戦争は悲惨で、現地のアルジェリア人と入植したフランス人との間で100万人と言われる犠牲者が出ました。ちなみにフランス政府はこのどさくさに紛れてサハラ砂漠で核実験を行いました。

3.アルジェリア民主人民共和国の成立と混乱

 1962年に独立にこぎつけたアルジェリア民主人民共和国は、ベン・ベラ大統領の下で社会主義政策を推進。キューバの世界革命路線に同調するなど、急進的な共産国路線を歩み始めましたが、ベン・ベラ政権は65年のクーデターで崩壊。ブーメディエン政権が誕生しました。ブーメディエン政権は1978年に死去するまでモロッコと国境紛争を戦ったり、西サハラ紛争でもモロッコと対立するサハラ・アラブ民主共和国側を支援したりして国力を衰退させ、その結果経済危機を招きます。この時期にはベルベル人の民族運動も活発になり、民族解放戦線(FLN)の一党独裁に非難が集中したため、1989年、アルジェリアは憲法を改正し、複数政党制に移行しました。その結果、アルジェリアは安定どころか分裂に向かうのです。

 複数政党制への扉が開かれたアルジェリアでは、経済的不満を抱えた若者を中心にイスラム原理主義組織が勢力を拡大。1991年の選挙ではイスラム救国戦線が圧勝しますが、これに危機感を覚えた軍が1992年にクーデターで実権を掌握。以後アルジェリアは2011年までの20年間、国家非常事態が宣言されたままの状態が継続しました。選挙結果が反映されなかったことに対してイスラム原理主義者が蜂起。武装イスラム集団(GIA)と政府軍との内戦(アルジェリア内戦)に発展しました。

 1999年の大統領選挙で当選したブーテフリカ大統領は、2019年まで20年間にわたる長期政権を務めます。その間都市部の政情は安定化に向かいましたが、特に東部地域では「イスラーム・マグリブ地域のアル・カーイダ」というイスラム原理主義組織がテロ活動を開始します。「アル・カーイダ」の分派はマリ、チャド、ニジェール、モーリタニアに波及しますが、アメリカ政府は第6艦隊を通じてこれらの組織の撲滅に乗り出し、2003年、「トランス・サハラにおける不朽の自由作戦」を始動しました。テロ組織の流入に悩むアルジェリアも2004年に参加しています。

 2013年には、天然ガスプラントに対するテロ攻撃で「アルジェリア人質事件」が発生しますが、天然ガスプラントの建設に実績があり、現地に駐在していた日本の「日揮」の社員10名がこの事件に巻き込まれ、残念ながら犠牲になりました。

4.「ジャスミン革命」の影響

 さて、アルジェリアにも「アラブの春」がやってきます。「ジャスミン革命」は2010年、チュニジアで起こった民衆の反政府運動ですが、結果として長期政権を担い、強権的になったベン・アリー大統領の国外追放につながりました。手段も非武装的で民主的なものであったため、以後アラブ世界では民主化のお手本として急速に広がっていき、強権的な政権に対する民主化の動きは「アラブの春」と報道されました。

 1992年に国家非常事態宣言を発令したアルジェリアでしたが、それ以降は解除されることなく国民の不満はデモや反政府運動という形では表現できない状態が続いていました。しかし、2011年の食糧価格の高騰で生活が困窮した国民は国家非常事態宣言を無視して反政府デモに参加するようになり、この動きは「アラブの春」の報道で刺激を受けた国民を巻き込んで大きな動きになっていきました。その声にこたえる形でブーテフリカ大統領は国家非常事態宣言を解除します。ブーテフリカ大統領自身は2019年の大統領選挙で5選を目指しましたが、大規模な反対運動が展開され、辞任に追い込まれました。2020年からはテブン大統領とジェラド首相が新政権を担っています。

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