レバノン共和国
出典:外務省HP
1975年の内戦以来レバノンに駐留していたシリア軍は、1982年、イスラエル軍の侵攻によって一旦撃退されますが、1990年に再びレバノンに展開。91年にはシリアの監視のもと内戦以来初となる挙国一致内閣が発足します。以来、国内駐留を続けるシリア軍の撤退を要求する反シリア勢力と、特に南部レバノンで勢力を伸ばしていた武装組織ヒズボラなどの親シリア勢力との間で対立関係が続きました。国際的非難を浴びたシリア軍は2005年に撤退しますが、それに代わって現在のレバノンにはシリア内戦で発生した100万人を超える難民が押し寄せており、国内の4人に一人はシリア難民という異常な状況となっています。つくづくシリアとは縁のある国ですが、以下ではレバノンの歴史を簡単に見ていきましょう。
1.レバノンは宗教の博物館?
レバノンは、実に様々な戦争を経験してきました。レバノンは、地理的に見て、ヨーロッパ、アジア、アフリカを結ぶ交易路の要に位置していますから、古くからギリシャ、ローマ、十字軍などによる様々な侵略を受けました。世界最古の神話といわれる「ギルガメシュ神話」の中にさえ、レバノンにおける戦争の記述があるほどですから、この国の戦争史の長さは肝煎りです。
岐阜県ほどのこの小国を、この上もなく複雑にしているものは、宗教を母体とする社会構成です。レバノン山岳地帯は、有史以来、宗教異端者や少数民族の「駆け込み寺」として機能しており、特にローマ帝国の「宗教公会議」で異端となった様々な宗派や、イスラム教の少数派などの根拠地となっています。特にキリスト教マロン派(用語解説参照)や、イスラム教ドルーズ派(用語解説参照)などは、基本的にレバノンおよびその周辺にしか存在しない宗派ですし、その他ギリシャ正教、ギリシャ・カトリック、プロテスタント、アルメニア正教等、ありとあらゆる宗派がレバノンに存在します。レバノンが、「宗教の博物館」といわれるのは、このためです。
レバノンはこの様に、多数の宗教団体の寄せ集めで出来たような国ですから、各宗派どうしの勢力争いが、そのまま政治の世界に持ち込まれる素地が充分にあったわけです。実際、19世紀の後半には、レバノンの最大宗派であるマロン派と、ドルーズ派の間で紛争が多発し、ついにはフランスの介入で、ムタサッリフィーアという、マロン派の自治区が出来たぐらいですから、もともと国としてまとまる方が難しい様な状態だったと言っていいでしょう。
レバノンは、第一次世界大戦後フランスの委任統治領となり、宗派間の対立は、一応なりを潜めましたが、1943年に独立する際、微妙なバランスの上に成り立つ内政基盤に、一定の尺度を与えようということで、各宗派の代表が集まって「レバノン国民協約」という紳士協定を結びました。つまり、選挙ごとに政治的な駆け引きなどしていると、それがもとで、各宗派間の対立にまで発展しかねないので、どの宗派がどの役職に就くか、最初から「人口の多い順に」決めてしまいましょうというものでした。ということで、大統領は当時の最大宗派だったマロン派キリスト教徒から、首相はイスラム教スンニー派から、国会議長はイスラム教シーア派から、それぞれ選出される現在のシステムが確立したわけです。
このシステムはしばらくはうまく機能して、レバノンは1970年代まで、中東唯一のキリスト教民主主義国として発展。首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げます。しかしながら、国が発展してくると、そのわけまえをどう分配するかで必ずもめるのが人の常。レバノンの場合は、政治経済の両面で、マロン派を中心とするキリスト教徒側に有利になるように国が出来ていましたから、イスラム教徒側としては面白くありません。そんな中、「もう一度、正式な人口統計に基づく、新しい政治システムを築くべきだ」という要求が、イスラム教徒側から出てきます。
どういうことかというと、独立以来レバノンの政治システムの拠り所となっていた国民協約は、1932年、フランス委任統治領下で行われた人口統計が基準になっていたわけです。この人口統計で「人口の多い順に」政府の役職が与えられたわけですが、以後イスラム教徒側の人口が増加し、マロン派が最大勢力とは言えない状況になってきていたのです。権力の座に付いたマロン派キリスト教徒は、イスラム教徒側に権力の委譲を行うことを恐れ、以後公式な人口統計を行って来ませんでした。
権力保持をねらうキリスト教側と、権力の委譲を迫るイスラム教徒側の対立は、58年、とうとう小規模な武力衝突にまで発展。レバノンは以後、両者のきわどいバランスの上に成り立つ、離婚間近の家庭の様な、ギスギスした国家になってしまいました。
2.レバノン内戦から、現在までに至る紛争を、解りやすく説明してください。
さてある日のこと、崩壊寸前のレバノン家に、がらの悪い居候が転がり込んできます。このPLO(パレスチナ解放機構)という居候は、ある日、旅の人(シオニスト)に情けをかけ、ひさしを貸してやったばっかりに、逆に「母屋」を取られてしまった不運の人です。(中東の紛争)それ以来「母屋」の奪還をもくろんでいるのですが、一向に効果が上がらず、当時は町内会の鼻つまみものになっていました。70年には、前に厄介になっていたヨルダン家からも愛想を尽かされ(黒い9月事件)、レバノン家に着の身着のままで転がり込んできたわけです。
ところがこのPLOという居候、家庭内離婚状態のレバノン家の実状を良いことに、だんだん態度が横柄になってきます。玄関近くの一室(南部レバノン)をあてがわれたPLOは、そこに事務所を構え、勝手に「母屋」奪還作戦の根拠地にしてしまいます。その一方で、夫婦に仲直りでもされて、家から追い出されたら大変と、丁度そのころ「権力拡大」を唱えて、夫(キリスト教徒)と対立していた奥さん(イスラム教徒)の味方について、対立関係をあおりにあおりました。その結果、レバノン家では、血で血を洗う、凄惨な夫婦喧嘩が巻き起こるのです(1975年、レバノン内戦勃発)。妻側に付いた居候は、めっぽう腕が立ち、形勢不利と見た夫側は、近所のシリア家に応援を求めました。かくして夫婦喧嘩は76年10月、一旦終わりを告げるわけですが、それ以後シリア家は調停役としてレバノン家に残り、夫婦と居候ににらみを利かせることになります。
シリア家には顔が上がらないわ、居候には大きな顔をされるわで、権威の失墜した夫(キリスト教徒側)は、「いっそのこと、だれか腕っ節の強い奴を雇って、妻も、居候も、シリア家も追い出してしまおうか」と考えていましたが、そんな思いが通じたのか、今度はイスラエル家が居候つぶしにやってくるのです(1982年、レバノン戦争勃発)。イスラエル家は、居候(PLO)の「母屋」を奪った張本人でしたが、以後、PLOから執拗な攻撃を受けて困っていたところでした。大挙して押し寄せたイスラエル家は、短期間でPLO勢力をレバノンから一掃してしまいます。
居候が居なくなって、正気を取り戻した夫婦は、ヨリを戻しつつありましたが、今度は長年に渡る家庭内崩壊状態で、グレにグレまくっていた子供達(イスラム教シーア派)が問題を引き起こします。83年にレバノンから撤退したイスラエルは、子供部屋を「安全保障地帯」と称して占領しますが、部屋から追い出された子供達は怒り狂い、イスラエルに対する復讐に燃えるのです。これら子供達は、ヒズボラ(用語解説参照)という組織を作って、以後、現在に至るまで、イスラエル占領軍に対する武力抵抗を続けることになります。
一方、レバノン家で長い間続いた夫婦喧嘩の円満解決を買って出た近所の町内会の面々の努力で、89年に和平合意(タイフ合意 用語解説参照)が達成される運びになりましたが、夫には、一つ気がかりなことがありました。シリア家の扱いです。居候も出ていったことだし、タイフ合意で夫婦仲も良くなってきたので、もう帰ってくれてもいいはずなのに、シリアは、妙にレバノン家に腰を落ちつけて、出ていこうとはしません。夫はそんなある日、シリアに相談を持ちかけ、引き上げてくれるように頼みましたが、シリアはそれを義理に反するとして受け付けません。かっとなった夫は、シリアに手をかけますが、力で上回るシリアは夫の手をねじ伏せてしまい、レバノン家を間接的に統治するようになります(1990年、アウン将軍の解放戦争 用語解説参照)。
結局シリア軍介入後のレバノンは75年以来の平静を取り戻します。そんな中、ハラウィ大統領は、東西ベイルートとその近郊から全ての民兵を排除し、レバノン政府軍を唯一の治安維持軍にするという「大ベイルート構想」を発表。キリスト教、及びイスラム教民兵組織は、その解体に同意し、カラミ首相の下、全ての民兵組織からリーダーを参加させた「挙国一致内閣」を発足。92年には、実に20年ぶりの総選挙が行われ、親イランのシーア派イスラム武装組織「ヒズボラ」が民主的に14議席を獲得したりしました。
同年10月に選出された実業家ハリーリー首相は、2004年までに2度組閣。国民の高い支持を背景に、総額30億ドルの復興計画を実行に移して、内戦で傷ついた首都ベイルートの復興を進めました。しかし、宗教宗派を超えた国民の団結と自立を唱え、シリア勢力の撤退を主張するハリーリー首相をシリアが黙ってみているわけがありません。2004年にはハリーリー氏を退陣に追い込み、2005年には爆弾テロでハリーリー氏は暗殺されるわけですが、これにもシリアが深く関与していることは確実とされています。
ハリーリー氏の暗殺で一つにまとまったレバノン国民は一つにまとまり、シリア寄りとされる政府に対して「杉の革命」と呼ばれる反シリア運動を展開。国際世論もそれに同調する形でレバノンからのシリア軍の撤退を主張します。その結果シリア軍は2005年4月にレバノンからの撤退を余儀なくされます。同年行われた総選挙ではシリアの圧力の中で、ハリーリー氏の路線を貫くシニオラ氏が首相に選出されました。
3.レバノン南部の状況
その一方で、1982年のレバノン戦争以来イスラエルに占領されているレバノン南部地域では、相変わらず戦闘が続いていました。特に、イランとシリアの支援を受けるイスラム原理主義組織ヒズボラは、2006年7月、イスラエル軍の兵士2名を拉致しますが、それに対してイスラエル軍は徹底抗戦を始め、レバノン南部のヒズボラの拠点を空爆。首都ベイルートは海上封鎖を受け、空港も爆撃を受けました。国連の仲介でイスラエル軍は同年10月に撤収しますが、以後、レバノンにおけるヒズボラの政治的、軍事的影響力は高まっていき、シニオラ政権はヒズボラをはじめとする親シリア勢力から6名の閣僚を受け入れざるを得なくなりました。
この頃、反シリア勢力に対するシリア側の弾圧は日に日に強まり、反シリア勢力の有力者であるピエール・ジュマイエル氏を筆頭に、テロや暗殺が繰り返されました。2018年には反シリア勢力が武力で反撃を開始するなど、一時レバノン国内は混とんとした状況になりましたが、同年、シリアのアサド大統領とレバノンのスライマーン大統領が国交正常化に合意。シリア側も2011年以降の内戦でレバノンに関与している暇はなくなり、レバノン情勢は一応の安定を取り戻していますが、その一方で、シリアからの難民が100万人に上り、人口400万人のレバノンの財政を圧迫しています。2019年にはガソリン、たばこに対する税率アップをきっかけとして長期間にわたる反政府デモが起こるなど、レバノンに平和と安定が訪れる日は、まだ少し先のようです。
*用語解説
マロン派
5世紀の初めに聖マーロが唱えた「キリスト単位論」を基本教義とする東方諸教会の一つ。首長は「アンティオキア大司教」と称される。680年のコンスタンティノープル公会議で異端とされるが、信徒はレバノンを本拠地として独自の典礼を現在まで保持し、教会用語や祈祷書には古代シリア語及びアラビア語が使われる。
ドルーズ派
11世紀初め、イスラム教シーア派の一派であるイスマイール派から分派した宗派。ファーティマ朝第6代カリフである、ハーキムを神格化したことで弾圧を受け、以後レバノン南部やシリア南部、パレスチナ北部に移住した。
ヒズボラ
1982年のイスラエル侵攻(レバノン戦争)は、特にシーア派の多いレバノン南部の住民に多大な被害を与えたが、それらシーア派の住民が中心となって出来た武力抵抗組織がヒズボラ(神の党)である。宗教的にはイランのイスラム革命の影響を受けている。83年、イスラエルが南レバノンの国境地帯を「安全保障地帯」として占領して以来、現在まで、当該地区での抵抗運動を続けている。
タイフ合意
アラブ主要国の、レバノン和平工作が実を結び、89年、内戦終結のための国会議員評議会がサウジアラビアのタイフで開かれる。ここで、43年の国民協約以来の宗派別不平等を改善する政治改革と、シリア軍の部分撤退を盛り込んだ国民和解憲章(タイフ合意)が採択されるが、合意直後、ムアワド大統領が暗殺され、90年、レバノンは、親シリア勢力対反シリア勢力の大規模な内戦状態(アウン将軍の解放戦争)に再突入する。
アウン将軍の解放戦争
89年のタイフ合意後、反シリア勢力の筆頭であるアウン将軍は、シリアに対する「解放戦争」を呼びかけ、1975年内戦以来最大と言われる総力戦で、親シリア派に対する無差別攻撃を行うが、シリア軍の直接介入で敗北、フランスへ亡命する。以後レバノンはシリアの監視の下、平和を回復。国の再建が急速に進んでいる。