パナマ共和国

出典:外務省HP 

1.パナマの歴史を教えてください

 パナマは、北米と南米を結ぶへその緒のように、東西に長細く伸びる国です。また、この国は南北アメリカ大陸を結ぶだけでなく、太平洋と大西洋を結ぶ運河がある、海上交通の要衝でもあります。さて、パナマは1903年にコロンビアから分離独立しましたが、ここでは独立前後の動きを見ていきましょう。

 パナマは、太平洋と大西洋を分ける堤防のような地形をしていますから、二つの海をつなぐ運河をここにつくるという発想自体はかなり古くから存在し、スペインもメキシコを征服した直後から運河の建設を考えていたそうですが、実際に運河建設の技術が整ってきたのは、19世紀に入ってからのことです。スエズ運河の建設に成功したレセップスというフランス人は、次の目標にパナマを掲げ、1881年から本格的な建設を始めます。しかし、砂漠を掘れば良かったスエズ運河とは違って、パナマの場合は中央の山脈に水路を通す必要があり、そのための技術力と資金不足で工事は難航。結局、89年に建設は挫折。レセップスは、失意の底でこの世を去ります。

 レセップスの事業を、強引に引き継いだのがアメリカでした。強引といった訳は、もともとコロンビアの一部だったパナマを、コロンビアの内紛を利用して1903年、一方的に独立させてしまったからです。そして、独立から15日しか経っていない11月18日にパナマ運河条約が両国の間で調印されることになりました。パナマ運河の工事は、こうして14年のブランクの後に再開され、10年後の1913年にアメリカの手で完成されたわけです。

 さて、パナマ運河条約によると、パナマ運河地帯(パナマ運河両岸の幅16kmの地帯)はアメリカ合衆国の領土とされています。実際、アメリカは運河地帯をパナマから1000万ドルで買って、アメリカの資金で運河を建設したわけですが、一方のパナマ側が受け取る額は、毎年25万ドルと非常に小額でした。また、アメリカはパナマ運河地帯を、中南米戦略上の重要な拠点とし、運河地帯以外にも基地を置きましたから、独立以後のパナマは、ありとあらゆる面においてアメリカの干渉を受け、植民地といっても良いような状態でした。これでは余りにもひどすぎるということで、1925年には大規模な反米闘争が始まり、31年に組閣したA.アリアス政権のもとでは、パナマ運河条約の見なおし交渉が始まりました。そして、ついに36年、ハル=アルファロ条約でパナマ運河地帯の主権をアメリカから奪い返したのです。

 しかし、主権は奪い返したものの、それは名目上のことで、アメリカ軍のパナマ駐在は続きました。それに対する住民の反感は強く、特に第二次世界大戦後には、基地撤退を要求する反米闘争が、アメリカ当局も無視できない規模にまで拡大。紛争の拡大を恐れたアメリカは、46年末にパナマ運河周辺地帯以外のアメリカ軍基地を撤退することを了承せざるを得ませんでした。

 さて、反米闘争も一応落ち着きを取り戻した50年、アメリカはパナマ運河会社を設立。独立採算性で運河を運営管理する現在の姿になりました。また55年には相互の利益に向かって協力することを謳った「相互理解と協力」条約が交わされ、パナマとアメリカの関係が強化された矢先、厄介な事件がパナマの反米闘争に再び火をつけることになります。56年、アラブの盟主として反植民地主義をとっていたエジプトのナセル大統領が、イギリスとフランスが運営していたスエズ運河を国有化することを一方的に宣言したのです。同じ環境にあるパナマ国民が、これに影響を受けないはずがありません。パナマ運河の国有化を目指す反米闘争は次第に拡大し、とうとう64年、アメリカ側も交渉のテーブルにつかざるを得ませんでした。

 息の長い交渉は、68年のクーデターで登場した軍事政権の登場で急展開します。特に軍事政権の黒幕といわれたオマール・トリホス司令官は、パナマ運河地帯の全面返還を主張し始めます。72年に国家の全権を掌握したトリホスは、世界の世論も巻き込んでアメリカに圧力をかけ、結果、77年の新パナマ運河条約の調印にこぎつけたのです。

 新パナマ運河条約の最大の特徴は、アメリカが1999年12月31日に、パナマ運河地帯を全面返還することが謳われている点ですが、それは両国にとって諸刃の剣でした。パナマにとって、米軍駐留に伴う自国への経済的効果は国内総生産(GDP)の13%に及び、全面撤退となると経済への打撃をかなり真剣に覚悟しなければなりません。一方アメリカにとっては、従来中南米の戦略拠点として機能していた、パナマの米軍基地を失うことは痛手です。さらに、パナマ経由でアメリカに運び込まれる麻薬に関しても常に目を光らせていなければなりません。実際、米軍は87年、麻薬疑惑が取りざたされたパナマの最高実力者ノリエガ将軍(トリホス司令官死後の後継者)を実力で排除しており、パナマ駐在のアメリカ軍は、その中心的な役割を演じました。

 よって、折衷案としてパナマ側が持ち出したのが「多国籍麻薬対策センター」構想でした。この構想は、麻薬取締りの一環としてセンターに軍隊を常備し、レーダーによる航空機の監視、麻薬組織に関する情報交換、各国捜査員の訓練などを行なおうとするもので、実質的には、アメリカ軍駐留の継続を容認するものでした。アメリカ側もこのセンター構想に飛びつきますが、その後パナマの中で、米軍駐留容認派と反対派に亀裂が生じ、結局、98年の段階で、センター構想は棚上げになり、よってアメリカ軍の全面撤退は不可避となったわけです。

 パナマでは1999年5月に大統領選挙が行なわれ、故アルヌルフォ・アリアス元大統領の夫人ミレヤ・モスコソ女史が、パナマ初の女性大統領に選出されましたが、そして1999年12月31日、パナマ運河地帯の米軍管理地区が全面返還され、米軍が完全撤退しました。

2.第二パナマ運河とは?

 古くて使い勝手の悪い旧運河が大型船舶時代の需要を満たしきらないという事実に直面したペルーのトリホス司令官は、アメリカに新運河建設の話しを持ちかけます。また、1979年に来日した同氏は、日本にも共同開発を持ちかけ、82年、米・日パナマ3国でパナマ運河代替案調査準備委員会が発足。88年には3カ国、計6社の企業連合が開発に向けて動き出しましたが、結局93年、これらの企業連合は、「第二パナマ運河の開発は不可能」という結論を出し、新運河開発は事実上頓挫してしまいました。しかしながら、現パナマ運河の通航能力が2020年までに限界を越えることから、現存する運河を最高15万トン級の船が航行できるように改良する工事が中国の資本で始まり、2016年に完成。翌年、パナマは1909年から国交を継続してきた台湾と国交を断絶して、中国との国交を樹立することになりました。 

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