クルド人問題

クルド人居住区 cc Central Intelligence Agency

 クルド人は、多分、中東で最も虐げられてきた人たちです。なぜかというと、イラクも、イランも、トルコも、それぞれクルド人の独立を嫌い、クルドつぶしに躍起になってきたからです。特にイラクのクルドいじめは執拗で、イラン・イラク戦争末期の1988年には、イラクが数千人のクルド住民を化学兵器で殺戮する事件が明るみに出ています。90年代にはイラクの攻撃に加えて、トルコもイランもクルド居住地区に大規模な攻撃を開始しており、当分中東の「クルドいじめ」の問題は解決しそうにありません。

1.クルド人独立運動の歴史

 クルド人とは、トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニア、アゼルバイジャンにまたがって住むクルド語を話す人々のことを指しますが、人口は特にトルコ(1200万人)、イラン(400万人)、イラク(300万人)の国境付近に集中しています。

 なぜこうも執拗な「クルドいじめ」が始まったかというと、まず、最大の理由は、クルド人が国家を持ち得なかったということです。国家を持ち得なかった民族は、ユダヤ人、パレスチナ人などを見てもわかるように、どうしても迫害や阻害の対象となってしまうものです。 

 さて、トルコとイラン、イラクの国境線は、19世紀に、イギリスとロシアの強い影響の下に確定されました。19世紀、ロシアは不凍港(冬になっても凍らない港)を獲得するという願望成就のために、トルコやイランに対して、盛んに戦争をしかけていましたが(ロシアの南下政策)、その一環として行われた第二次ロシア・イラン戦争に勝利したロシアは、現在のカフカス地方及びアゼルバイジャン地方を奪い取ります(1828年、トルコマンチャーイ条約)。これを見たイギリスは、以後ロシアの南下政策をくい止めようと、イランに肩入れするようになります。

 結果、イギリス、ロシアの対立関係を反映した国境線が19世紀の半ばに引かれるわけですが、そのときクルド人は、トルコ、イラン、イラクの国境線が集中したあたりに住んでいましたから、ある朝起きてみると、自分たちが住んでいた土地が3つの国に分断されていたわけです。

 この様に、何の前触れもなく分断されてしまったクルド人居住区でしたが、彼らが再統合する機会が第一次世界大戦後に訪れます。第一次大戦でオスマン・トルコ帝国が崩壊し、新しい国境の線引きが必要になったからです。これはチャンス到来とばかり、クルド人は独立運動を展開しましたが、いずれもトルコ、イラン、イラク領内で分断された活動を行ったに過ぎず、クルド人全体の独立運動としての盛り上がりに欠けていました。一方、第一次世界大戦後、中東に勢力を伸ばしたイギリス、フランス両国は、いかにして各国の利権を吸収するかと、躍起になっていましたから、土地も、資源も、利権もなく、不安定材料にしかならないクルド人の独立運動など、歯牙にもかけませんでした。結果、第一次世界大戦直後に行われたクルド人の独立運動は、イラン、イラク、トルコそれぞれの国で、すべてつぶされることになるのですが、独立運動を通じて、初めて民族意識の芽生えたクルド人は、以後根気強い独立運動を展開し続けることになります。

2.イランのクルド人独立運動

 短期間ではありますが、クルド人独立の夢が叶ったときがありました。第二次世界大戦中にソ連軍とイギリス軍の進駐を受けたイランが弱っていた頃を見計らって、クルディスターン共和国(1946年1月)という自治政府の独立を一方的に宣言したものでした。それで期待通りイランがつぶれてくれれば独立が達成されていたのでしょうが、第二次大戦後、イランの国力は復活し、46年5月に、それまで防波堤の役割を演じていたソ連軍が撤退すると、クルディスターン共和国は自然崩壊してしまいます。約11カ月の独立でした。以後、イランにおけるクルド人独立運動は、イラン・クルディスターン民主党(イランKDP)という政治組織が中心となって進められ、現在に至るまで単発的なゲリラ活動を展開しています。

 イラン側は、イランKDP及び、イラク国内で活動するイラクKDPを、徹底的に弾圧する姿勢を崩しておらず、92年にはベルリンでクルド人反政府活動家を暗殺、96年にはイラク領土内のKDP基地に越境爆撃を行うなど、断固とした姿勢で臨んでいます。最近ではイラク国内のクルド人グループ、クルディスターン愛国同盟(PUK)を支援して、反イランの性格が強いクルディスターン民主党(KDP)との対立関係を煽っており、このことがクルド人問題をいっそう複雑にしています。

3.イラクのクルド人独立運動

 1946年、イランでクルディスターン共和国が自然崩壊した後、その残党の一部は58年のクーデターで王政の崩壊したイラクに陣取り、イラク・クルディスターン民主党(イラクKDP)を結成します。このとき、イラン政府はクルド人のイラク内での独立運動を支援しだすのです。つまり、「独立するんだったらイランではなく、イラクでどうぞ」という、手の良い厄介者払いでしたが、イランの援助を受けたクルド独立運動は活性化し、度重なる武力闘争の末、70年にはイラク政府との間で自治協定を結ぶことに成功します。クルド人は、さらに独立を求めて行動を拡大。イラク中央政府との確執は、74年の大規模な武力衝突に発展するまで拡大します。

 と、ここまでは調子が良かったのですが、クルド独立運動に手を焼いたイラク政府が、イラン政府と裏取引をするようになってからは形勢が逆転します。その裏取引は、「イランがイラク内のクルド人独立運動に対する援助を停止すれば、イラクを流れるシャトル・アラブ川の使用を許可する」というものでした(後にこの川の遡航権をめぐって、イラン・イラク戦争が始まります )。喜んだイランは、75年、クルド人に対する援助を即座に停止。後ろ盾を無くしたクルド人の独立運動は徹底的に弾圧され、特に79年のサダム・フセイン政権成立後は、容赦ない殺戮が繰り返されました。

 黙って殺されるよりは戦って死んだ方がましということでしょう、イラクのクルド人は、湾岸戦争後の91年を絶好の機会ととらえて一斉蜂起。サダム・フセイン率いるイラク軍と戦って独立を勝ち取ろうとしますが、イラク軍は、湾岸戦争の腹いせとばかり、クルド人居住区を徹底的に破壊します。結果、2百万人を越えるクルド難民がイランやトルコ領内になだれ込む事態が発生。これを見たアメリカは、イラク北部に飛行禁止地帯と多国籍軍保護地域を設置して、クルド人の保護にあたりました。

 以後イラクのクルド人は、イラク北部に出来た、事実上の自治地区と、その周辺地域に住んでいますが、そんな中で94年にはイラク・クルディスターン民主党(イラクKDP)と、クルディスターン愛国同盟(PUK)との内部抗争が発生したり、95年にはトルコ軍の大規模な攻撃を受けたり、96年9月にはイラクやトルコの空爆を受けたりで、相変わらずの、如何ともしがたい混沌とした状態が続いています。

4.トルコのクルド人独立運動

 人口的に見ると、トルコ領内に住むクルド人の数は、他の地域から比べるとはるかに多く、大まかに言ってクルド人人口の半分以上はトルコ領内で生活をしており、またトルコの人口の4分の1はクルド人だという調査結果もあります。

 さて、1923年に、トルコ共和国を建国したムスタファ・ケマル大統領は、すべての宗教色、民族色を徹底的に排除して、トルコの民主化を目指しましたが、その過程で「トルコにはトルコ人しかいない」という、政治の基本姿勢が出来上がっていきます。つまり、トルコ国籍を持つ者は、皆平等に扱うといった意味ですから、多くの少数民族を抱えたトルコのような国にとっては、非常に的を射た政治理念でした。

 しかし、実際にその政治理念を実行に移すとなると、数々の問題が出てきます。その最大のポイントがクルド人問題でした。トルコは、60年代、国内最大の民族であるクルド人を、なんとかトルコ人に同化させようと、クルド語の使用や印刷を禁止したりしましたが、もちろん、一向に効果が上がらなかったばかりか、逆にクルド人の民族意識をあおる結果となってしまいました。

 クルド人は78年、クルド労働者党(PKK)という武力組織を結成して独立運動を開始しますが、対するトルコ政府は、これを徹底的に弾圧する方針を現在まで貫いています。95年3月には3万5千人からなるトルコ軍が、イラク北部のクルド人自治地区にまで越境攻撃を仕掛けており、以後PKKに対するトルコ政府の圧力は、次第にエスカレートしています。96年9月には、イラク領内に幅5~10キロの「安全地帯」を設置することで、PKKの行動を封じる計画がトルコ政府によって打ち出されました。まさに、トルコとイラク共同のクルド封じ作戦と言ってもよいでしょう。

 96年、97年にはイラク・クルド民主党(イラクKDP)と、クルド愛国同盟(PUK)の内部抗争が激化。その隙をついて、96年9月にはイラク軍の介入を受けました。これに対しアメリカは同年9月、急遽イラク攻撃を決定。イラクの飛行禁止空域の南限も、従来の北緯32度から北緯33度以南にまで拡大されましたが、クルド人問題の解決という点では、あまり効果があがっていないのが実状です。現在クルド人の中では、イラク寄りのクルド民主党(KDP)と、イラン寄りのクルド愛国同盟(PUK)とが対立関係にあり、周辺国の弾圧を受けながらも分裂状態が続くといった、二重苦に悩まされているところです。

 クルド労働者党(PKK)にとって、最大の痛手は、99年に最高指導者のアブドゥッラー・オジャラン党首がトルコ当局に逮捕され、死刑判決を受けたことです。オジャラン氏は裁判の不当を主張して欧州人権裁判所に訴えたため、EUへの加盟を表明していたトルコは死刑執行を保留しましたが、PKK勢力はこれで勢いを失い、99年に一方的に休戦を宣言します。

 ところが2004年にトルコ軍が急にクルド人支配地域に進軍。クルド人は再び武装闘争へと駆り出されます。2013年には服役中のオジャラン元党首が和平を呼びかけ、武装闘争の終了を宣言。ところが、2015年、イスラム国との戦いのどさくさに紛れてクルド人勢力のキャンプを空爆する事件が発生して、クルド人は再び戦いに駆り出されることになり現在もトルコ政府との間で対立が続いています。

 以上、イラン、イラク、トルコにおける、クルド人独立運動を見てきましたが、これ以外にも、アルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国紛争(ナゴルノ・カラバフ紛争)のとばっちりを受けたクルド人難民の問題などがあります。これほどいろんな国であからさまな攻撃を受けている民族も珍しいでしょう。しかし、クルド問題は、その目標が独立である以上、解決の糸口が全くつかめない複雑な問題です。 

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