アラブ首長国連邦(UAE)

出典:外務省HP

1.アラブ首長国連邦の歴史を手短に教えて下さい。

 2019年現在、日本にとってアラブ首長国連邦はサウジアラビアに次ぐ最大の石油輸入先です。また、日本企業の多くが、ドバイを中東・アフリカ地域の販売拠点として進出していますから、日本としては湾岸諸国のうちで、一番なじみの深い国でしょう。

 アラブ首長国連邦を構成する部族は、18世紀にアラビア半島内陸部から進出してきた部族で、19世紀初頭にかけて、ペルシャ湾を航行する船舶に対する海賊行為を主な生業にしていた時期がありました。現在のホルムズ海峡からペルシャ湾南岸地域は、このため「海賊海岸」と呼ばれていた時期もあったほどです。まあ、一言でいえば海賊の末裔といったところでしょうか。

 当時インドの植民地化と、東西貿易の中継地としてペルシャ湾に進出してきたイギリスにとって、これらの海賊は厄介者でしたから、執拗に海賊退治を行った結果、1820年にこれら海賊との間で休戦協定をむすび、保護領とするかわりに海賊行為を止めることを合意させることに成功します。このため、これらの土侯国は当時トルーシャル(休戦)土侯国と呼ばれていました。

 さて、イギリスは1892年に行政官を派遣して保護領としての体裁を整え、以後80年間にわたってこれらトルーシャル土侯国を支配しますが、1968年、当時の労働党内閣が「71年までにイギリス軍をスエズ以東から撤退させる」という宣言を出したため、トルーシャル土侯国(7首長国)と、バハレーン、カタールといった、当時、イギリスの支配下にあった首長国をまとめて連邦国家を作る構想が持ち上がったのです。

 しかしながら、この構想は当時すでに石油生産で潤っていたバハレーンとその他の首長国との対立があり、まとまりませんでした。よって、バハレーンとカタールを除く6つの首長国が集まって71年に出来たのがアラブ首長国連邦でした。72年には7つ目の首長国となるラスアルハイマ首長国が加わり、7つの首長国の連合体としてのアラブ首長国連邦が成立しました。

 現在アラブ首長国連邦は、アブダビ(Abu Dhabi)、ドバイ (Dubai)、シャルジャ (Sharjah)、ラスアルハイマ(Ras al-Khaimah)、フジャイラ(Fujairah)、アジュマン (Ajman)、ウムアルカイワイン (Umm al-Qaiwain)という7つの首長国で構成されます。各首長国の独自性は強く、何をするにしても7首長で構成される最高評議会で5票以上の賛成がなければ進みません。とはいえ、実際には石油資源の豊富なアブダビが圧倒的な力を持っていて、連邦予算の8割がアブダビから、1割がドバイから拠出されています。残りの1割は連邦政府の税収で賄われており、他の5首長国の財政面での負担はありません。ですから、アブダビ、ドバイ両首長国には拒否権が確保されていて、実際のUAEの運営はアブダビとドバイの2首長国に任されています。大統領も独立以来アブダビの首長家であるナヒヤーン家から、副大統領はドバイの首長家であるマクトゥーム家から選出されることが慣例となっています。ちなみに7首長国のうち、アブダビ、ドバイ、シャルジャが産油国。その他は非産油国です。

 2004年からはハリーファ大統領が第2代大統領に就任しており、湾岸諸国の中でも最も安定した政権運営を続けています。2010年に建設されたドバイの超高層ビルの名前は彼の名前をとってブルジュ・ハリーファと命名されたことは有名ですね。2014年にハリーファ大統領が脳卒中で倒れた後は、異母兄弟であるムハンマド・ビン・ザーイド皇太子が実質的に大統領の職務を代行しています。

 2005年には限定的ながら国民の参政権が認められ、連邦議会を構成する半分の議席が選挙でえらばれるという官主導の民主化を行っており、2011年の「アラブの春」以降の民主化の波の中でも支配層に対する国民の支持は高く、デモや暴動は一度も起きませんでした。

 96年には恒久的な憲法が採択され、アブダビが首都と正式に決定されました。原油確認埋蔵量は、2019年に70億バレルの新規油田が発見されたことで世界6位の1050億バレルとなりました。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスです。

2.将来不安定材料となる点はありますか?

 このように非常に安定的に国家運営をしているUAEですが、イランとの間ではホルムズ海峡に近いアブムーサ、大トンブ、小トンブの3島の領有権をめぐる領土問題が未解決で、99年から湾岸協力会議(GCC)でサウジアラビア、オマーン、カタールの3カ国による委員会で、領有権争いの解決に乗り出しているところです。しかしながら、同島はイラン軍に実効支配されており、問題の解決には時間がかかりそうです。

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